Just another WordPress site, really. In Japanese.

カテゴリー: 中年の主張 (page 1 of 2)

藁人形論法と鋼鉄人形論法

「藁人形(straw man)論法」という言葉があるが、日本では「議論において相手の主張を歪めて引用し、その歪められた主張に対して反論するという誤った論法」というような説明がされることが多いようだ。これは必ずしも間違いではないが、相手の主張を「歪曲する」というところに主眼を置くと若干ニュアンスがずれるというか、なぜ「藁人形」や「カカシ」になぞらえるのかが分かりにくくなるような気がする。

歪曲といっても、相手が白と言っているのを黒だとねじ曲げる、実際には言っていないことを捏造するということだけを問題としているのではない(そういうのも含まれるけれど)。むしろある主張のうち、いちばんトンマなバージョンを選んで攻撃することで、本当の意味では論破できていないのだが、論破したような気になる、というやり口が主眼だ。それが、生身の人間ではなくニセモノのカカシを撃っていい気分になるというたとえとつながる。

そういう意味での藁人形論法を私も使ってしまいがちだが、これはよくない。なぜやってしまうかといえば、そっちのほうがラクだからで、弱い相手を選んでやっつけたほうが簡単なのは言うまでもない。しかし、どんな分野にもピンからキリまであるわけで、キリは論外でも、ピンには常になにがしかの真実が含まれている。

例えば一口に天動説の信奉者といっても、単に無知蒙昧で迷信深いだけの者もいれば、プトレマイオスもいる。「アルマゲスト」に書かれた彼の天動説は数学を駆使した精緻なモデルで、当時の地動説よりよほど正確に天体の動きを説明した。正直言って、今プトレマイオス先生がよみがえったら、私が彼を論破できるとは到底思えない。そもそも歴史的にも、彼の天動説を反駁するのに千数百年以上を要したのである。そして、プトレマイオスを論駁しなければ、結局のところ天動説の息を止めるということにはならなかったのだ(余談ながら、こういうことを言うといろいろな人に怒られそうだが、率直に言えば今の経済学や経営学は、実はプトレマイオスの天動説のようなものなのではないかと思うことがたまにある)。

アルマゲスト (日本語) 単行本 – 1993/7/1

ゆえに、フェミニズムでもリベラルでもファシズムでもオルタナ右翼でも何でもよいのだが、ある説を論破したかったら、そのアラばかり探すのではなく、むしろその立場の最善最強の言説を相手にしなければならない。そういう最強の論敵がいなければ、自分で相手の立場に立って自ら最強の理屈を組み立てて、それをやっつけなければならないのである。もちろん相手の立場を、場合によっては相手以上に勉強しなければならず、手間暇がかかるし、時として精神衛生上もあまりよろしくない。でも、やるんだよ。

私自身は(往々にして持論とは逆の立場を持たざるをえない)ディベートでこの種の態度のようなものを学んだのだが、最近ではこれを「鋼鉄人形(steel man)論法」と言うらしい。この言葉はピーター・ティールに帰せられることが多いようだが、別にティール創案というわけではなく(確かにティールはスティールマンという言葉はよく使うが、彼も自分がオリジナルだとは言っていないように見える)、もっと前からある言葉のようではある。ティールいわく

「我々には、自分と立場の異なる相手をその戯画におとしめてしまう傾向がある。相手の内でいちばん弱い者を藁人形にしてしまうということだ」とその夜ティールは述べた。「主張を『鋼鉄人形』化する方法を見つけなければならない。相手の主張を可能な限り理解するためには、相手の主張を可能な限り最も強力な形で構成する必要がある」。ティールは、トランプのポピュリズムは一過性の政治運動に過ぎないかもしれないと認めた。「左派はそのうちまた勝つことが出来るようになるだろう。しかしそれは、鋼鉄人形的アプローチによるものでなければならない」「なぜ『メイク・アメリカ・グレート・アゲイン』が停滞に直面した人々に対して力強い主張になったのか理解しなければならない。トランプへ投票した人に対し、ただとっとと死ねというのではなく、もっといろいろ言うべきことはあるはずだ」

科学や学問の「ありがたみ」

日本学術会議と日本学士院は同じものだと思っていた程度の情弱なので、全く偉そうなことは言えないのだが、昨今の騒動も含め私が眺めている限りでは、科学や学問全般、あるいは知的エリートというようなものに対し(少なくとも潜在的に)反感を抱く層が、一昔前に比べ明らかに増えているように思われる。この風潮は、日本だけではなくアメリカやヨーロッパでも見られる傾向のように思えて興味深い。

現時点での私のあまり根拠のない説は、おそらく科学や学問、知的エリートなどの「分かりやすいありがたみ」のようなものが、近年見えにくくなったからではないか、というものである。

学者になるような人は、元々科学や学問が好きだからなるわけで、その分野の価値を疑うということはあまりないだろう。しかし一般の人にとっては、科学や学問そのものの価値というのは分かりようがないのではないか。これは別に科学等に限った話ではなく、例えば最近の話で言えば、将棋を自分で指す人はあまりいないと思うが、藤井君が29連勝した、最年少でタイトルを獲った、とかいうと大いに注目が集まるし、将棋を知らなくても、将棋には価値がある、と思う人が増えるわけです。

大昔は、科学の進歩は分かりやすい応用と主に訪れ、それは私たちの生活をダイレクトに変えていた。自動車しかり、ペニシリンしかりである。内燃機関の原理や抗生物質の機序を知らなくても、かつては到底行けなかったような遠くへ日帰りで行けるようになり、かつては手の施しようもなくばたばた死んでいた伝染病が治るようになったのは誰の目にも明らかだった。洗濯機やクーラーもそうだし、原発ですらそうだった。ここまで分かりやすい成果が連発されていれば、それらをもたらした科学や学問の価値を否定することは難しい。日本に固有の文脈としては、やはりB29や原爆のインパクトは大きかったのではないか。科学が劣っているから日本は戦争に負けた、とみんな思ったのだ。この情念こそが、産業界も含めてある時期までの日本の研究開発を駆動していたように思えてならない。今は、そこまで科学の価値を確信している人のほうが少ないだろう。

そもそも、近年発達した行動経済学が教えるのは、およそ人間というものは生物学的に知的怠惰であって、感情的な意思決定や確証バイアス、その他批判的思考を妨げるありとあらゆる衝動を持ち合わせている、あまり合理的ではない生き物ということだ。人間はそもそも科学やらファクトやらと相性がよくないのである。

そう考えると、科学や学問への反感はたぶん有史以来ずっとあったのだが(ある時期までそれは宗教に回収されていたようにも見える)、科学の社会的応用の圧倒的な力によってねじ伏せられてきたのである。ところがここ20年くらいだろうか、そうした誰の目にも分かりやすい「科学の進歩」が少なくなってきたように見える。最後のそうした「発明」はスマホだろうか。しかしスマホが生まれてからすでに20年、スティーヴ・ジョブズが意気揚々と初代iPhoneを発表してからも13年経っているのである。AIは確かに近年急速に発展したがそこまで身近ではないし、自動運転車もドローンも、我々の生活を大きく変え、目に見えて向上させるというところまではいっていない。こうなると押さえ込まれていた反感がまたくすぶり始めるわけで、だとすれば、科学や学問がポピュリスト政治家の手軽な人気取り用カカシになるのは必然のようにも思える。

経済学者のタイラー・コーエンが2011年に書いた「大停滞」も、若干文脈は違うが似たような話を取り上げていた。先進国では経済成長のエンジンとなる「容易に収穫できる果実」が食べ尽されたため、経済が停滞している。「容易に収穫できる果実」とは具体的には、豊富な資源のある無償の土地と、能力はあるのにこれまで教育を受けられなかった子供、そしてイノベーションだが、先進国では前者2つが枯渇しつつあるので、経済成長を維持するにはイノベーションが必要となる。ところがこのイノベーションも停滞しつつあり、数少ないイノベーションも、(ITが典型だが)雇用を増やすどころか、人間の仕事を減らす方向に向かっている。これは結局高給取りと最低賃金すれすれの二極化につながるわけで、そのくせ環境問題だとか言われてレジ袋ももらえないとなると、いよいよ多くの人にとって科学のありがたみというものは分かりにくくなるのではなかろうか。こうしたことに科学や学問に携わる人が気づいていない、あるいは非常に鈍感なことが問題の一部を成しているように私には思われてならない。

ではどうしたらよいか、というと、正直私にはよく分からない。この問題がやっかいなのは、科学も学問もろくなもんじゃない→科学や学問に投資しない→目に見えた成果が出てこない→(以下繰り返し)という、予言の自己成就みたいなところがあるからだと思う。コーエンは科学者を大事にしろと言っていたと思うが、やはり金を突っ込む対象としては大衆的支持というのも大事なわけで、ポピュリズムをどうすれば反科学的ではない方向に誘導できるか、というのが今後大きなテーマとなるように思う。

新常態としての「世界2.0」

新型コロナウイルスの問題はまだ先が見えないが、それでもパンデミック収束後の世界について様々な議論が始まっている。

経済学者のタイラー・コーエンが最近、World 2.0というニューノーマルの一覧表をブログに載せていた。多分に思いつきをただ列挙しただけというところもあるが、議論のとっかかりというか、変化するリアリティの大雑把な把握としてはなかなか良いと思うので訳出してみた。原文そのままだとよくわからないところもあるので、適当に意訳や補足を入れている。

世界1.0 世界2.0
求人増加が110ヶ月連続 2週間で1000万人が失業給付申請
セクターをまたぐ買い相場が10年続く 勝者と敗者の峻別、極端な結果不平等
完全雇用 失業率30%
ベース・レート思考(既存の具体例から類推) 第一原理思考(原理に戻って全て再検討)
物理、モノの世界 デジタルの世界
オフィスワークがデフォルト リモートワークがデフォルト
オフィスは仕事場 オフィスはコネクション、コミュニティ、エコシステムの形成や取引の場
スーツ、ネクタイ、腕時計、名刺が重要 良い照明やマイク、ウェブカム、自宅オフィス備品が重要
通勤と混雑 自宅と家族
ラストマイル(公共交通機関から自宅まで)が重要 1マイル(自宅近辺)が重要
レストラン 食料品店と配達
4ドルもするトースト(高級既成品を重視) サワードウ作成機(自家製を重視)
Walkscore(「駅から何分」を教えてくれる不動産サイト)を重視 Speedtest(インターネットの速度測定サイト)を重視
どの都市かが決め手 インターネットの整備具合が決め手
大学進学に10万ドル ウェブセミナーに10万ドル…も払う奴いねえよ
都会 田舎
YIMBY(迷惑施設歓迎) NIMBY(迷惑施設拒否)
内部問題が重要 外生的ショックが重要
たくさんの小さな問題 一つの大きな問題
ふわふわしたたわごとがもてはやされる 実際の問題に直面
テクノロジーが過剰 テクノロジーが不足
現状に満足 行動を起こす
年単位 日単位
政策 実現力
イデオロギー 能力
政府にある程度の有能さを仮定 政府は完全に無能と仮定
制度や機関を重視 制度や機関は幽霊船(実質がない)
WHO Who? (WHOて誰?)
制度や機関を信頼 人間を信頼
グローバライゼーション デカップリング
ジャスト・イン・タイム(必要なときに必要なだけ) 備蓄
テールリスク(想定外のリスク)を気にするのは変人だけ テールリスクこそが主流
NATOが重要 アジアが重要
ベビーブーマーが社会で最も強力 ベビーブーマーが社会で最も脆弱
生産性向上の崩壊 経済の崩壊
社会サービス重視の民主党員(リベラル) ユニバーサル・ベーシック・インカムを奉じる共産主義者
プロパガンダ プロパガンダ
緊縮財政主義 MMT
企業負債 政府負債
技術への逆風 技術は文明と何十億人ものライフラインの守り手
Amazonを分割せよ Amazonが無いと困る!
社会問題を避けることに全力 レイオフを避けることに全力
スポーツ eスポーツ
スマホはタバコ(嗜好品) スマホは空気(必需品)
資源の枯渇 1バレル20ドルの原油、1ワット75セントの太陽発電、キロワット時100ドル以下のバッテリ(資源安)
停滞 変化
低ボラティリティ 高ボラティリティ
デザイン重視 ロジスティックス重視
外向的 内向的
オープン クローズド
20世紀 21世紀

児童ポルノの表現規制に関する考え方のスケッチ

はじめに

漫画やアニメ等の表現規制派の旗頭の一人で、東京都青少年問題協議会委員等の公職にも就いていたメディア学者、渡辺真由子氏の著書「『創作子どもポルノ』と子どもの人権」に、剽窃があるとのことで出版社が回収する騒ぎとなった。そのおかげで、というのも妙な話だが、渡辺が言うところの「創作子どもポルノ」、一般的には非実在児童ポルノとか準児童ポルノと呼ばれていると思うが、そうしたものの表現規制に関する議論が再浮上した感がある。

私が関わるMIAUは、2008年に起きた日本ユニセフ協会による準児童ポルノ騒動以来、長年に渡ってこの問題に深くコミットしてきたが、正直言って私自身はこの手の問題に専門的知見があるわけではない。そんなわけで、自分の頭の整理を兼ねて児童ポルノの表現規制に関する考え方をまとめてみた。似たようなことはすでに多くの人が書いているので、ようは個人的なメモである。

表現規制は結局法規制の問題に帰着するので、法学的、法制史的、あるいは国際比較法的な議論が重要だとは思うが、ここではできるだけ法的議論には踏み込まないという方針でやってみたい。素朴なロジックの範囲でどう考えられるか、というのがテーマだ。

不可侵原則と他者危害原則

表現規制を巡る議論が不毛になりがちなのは、規制派と反対派で前提を共有していないからではないかと思う。そこで、最初に私自身の前提というか考え方を明らかにしておきたい。

私がこの手の問題を考える際に基本とするのは、Non-aggression principle である。英語圏では NAP としてよく知られているが、日本語の定訳は無いようだ。以下では、やや座りの悪い訳だが「不可侵原則」ということにしたい。

これは、「同意が無い限り、他者を侵害してはならない」という立場のことである。ここでの侵害(aggression)とは、他者の所有権や決定権を強制的に犯したり、犯すと脅迫する行為全般のことを指す。我々の身体や能力には自己所有権や自己決定権が及ぶと考えられるので、当然、(性)暴力等も侵害となる。一方、外科医が患者の開腹手術を行うのと、殺人鬼が被害者の腹をナイフで裂くのは、外形的にはあまり違いがない。そこで、同意(consent)の質と有無が重要となるわけだ。当然同意主体には成熟した判断能力が必要とされるので、未成熟な児童の「同意」は、最低でも割り引いて評価しなければならないだろう。これが、年齢によるレーティングが正当化される根拠である。

これと表裏一体なのが(というか、出所は同じなので同じものと見なしてもよいのだが)、他者危害原則(Harm principle)である。これは、「他者への危害は、他者からの危害を防ぐ自衛の場合のみ正当化しうる」という立場である。Harmは危害と訳されることが多いが、相手を危険にさらすような行為だけではなく、より広い意味での干渉や介入全般を意味する。

裏を返せば、他者を侵害しない限り、他人から見てどんなに馬鹿で不道徳なことをしようと干渉されるいわれはなく、個人の自由、という立場でもある。不可侵原則や他者危害原則は不干渉原則でもあり、愚行権とも表裏一体なのだ。

その背景には、自分のことは自分が一番よく分かっているのであって、情報という点でも利害という点でも劣る他人があれこれ言うべきではない、という考え方もあれば、長期的に見ればさすがにいつかは自分のやっていることの馬鹿さ加減に気づくだろう、という人間の理性への信頼もあるだろうし、逆に、いつまで経っても人間は不合理で不道徳なことをやりたがる生き物で、遺憾ながらそれは人間性というものと深く結びついている、という諦念もあるだろう。愚行というとあまりイメージが良くないかもしれないが、私自身は、愚行権こそが人間の自由を保障する最後の砦であり、イノベーションの源泉だと考えている。

不可侵原則や他者危害原則に、正当性は認められるだろうか。不可侵原則に正当性がないとすれば、同意無しでも他者への侵害は認められるということになる。常識的に考えれば、これは殺人や暴力はもとより、奴隷制度や臓器くじを認めるという立場であり、現在多くの支持を得られるとは思えない。とはいえ、確かに緊急避難のような例外的ケースはあり得る。しかしそうした例外を認めるに当たっては、データに基づいた、誰の目から見ても明らかというレベルの強力な根拠が必要だろう。

他者危害原則に関しても様々な正当化が出来ると思うが、私としては、愚行権が認められない社会では愚行が出来ず、愚行したい人の自己決定権が侵害される一方、愚行権を認める社会では当然愚行をしない自由もあるわけで、パレート改善というか、最大多数の最大幸福という見地から正当化しうると思う。また、この考え方から導かれる、「する自由」対「しない/させない自由」といった価値観の衝突の解決法は、棲み分け、すなわちゾーニングということになるだろう。見たい人は見る自由、見たくない人は見ない自由を、それほど多大なコストをかけずに行使できる社会ということである。

実在児童ポルノと非実在児童ポルノ

以上の議論に基づき児童ポルノの問題を考えると、まず実在する児童を撮影した実在児童ポルノについては、その児童の自己所有権が明らかに侵害されているわけだから、全く容認の余地がない。実際、世界的に見ても、実在児童ポルノを擁護する声というのは皆無ではないかと思う。日夜、実在の人身売買や児童虐待と戦っている人々が多くいる。以前、スウェーデンにおける非実在児童ポルノを巡る裁判においてスウェーデン警察が、

一方、児童ポルノの摘発に力を入れるスウェーデン警察は、「性的虐待にさらされる恐れのある子どもたちを、空想のイラストと同レベルに扱うべきではない」と批判。既に警察は虐待の加害者の取り締まりで手一杯で、同裁判の焦点は児童ポルノ対策から外れているとして、「イラストまで捜査対象に加えれば、被害に遭っている子どもたちを助けるための時間が削られてしまう」との見解を示している。

述べたそうだが、これは児童ポルノ取り締まりの現実を雄弁に物語っている。

加えて、そもそもそれは本当に実在児童ポルノなのか、というのは慎重に検討する必要があろう。日本人を含むアジア人は、欧米人からは実年齢よりも若く見えるという。この場合、被写体は実は児童ではなく、同意が有効である可能性があるわけだ。実際、かつて30代の日本人グラビア女優の画像が、海外で児童ポルノ扱いされるという珍事件もあった。

では、漫画やアニメ等の非実在児童ポルノはどうか。

とりあえず、実在する児童のポルノ写真をトレースし、絵画だと言い張る者がいたが、これは実在児童ポルノの範疇であろう。

そうではなく、完全にイマジネーションに基づいたキャラクターが描かれた、非実在児童ポルノはどうだろうか。非実在のキャラクターなので、被害者は存在しない(そもそも「児童」なのか、あるいは人間なのかすらも分からない)。そもそも侵害される他者が存在しないのだから、不可侵原則にも他者危害原則にも抵触しないということになる。児童ポルノを見たり描いたりすることへの倫理的、宗教的批判はありうるかもしれないが、それは法的責任とは別の話で、結局は個人の愚行権の範囲内、というのがこれまでの議論から導かれる結論だと思う。

基本的にはこれで話が終わってしまうと思うのだが、それでもなお非実在児童ポルノを規制したいという場合、どのような論理が考えられるだろうか。今までの議論からすれば、最低でもこの場合、他者への侵害が何らかの形で確かに存在する、ということを、説得力ある形で示す必要が出てくる。

一つの方向は、非実在児童ポルノを見ることが、実在の児童虐待や児童性暴力といった犯罪行為を明らかに増加させるということの証明である。メディアを見ればなにがしか影響されるのは当たり前だが、それが実際に犯罪行為を誘発するかは話が別だ。この因果関係が証明されるのであれば、非実在ポルノの規制は予防措置としてある程度正当化できるかもしれない。

この点に関し、ブログで渡辺真由子氏自身のこれまでの研究を再検討した人がいるが、結局渡辺自身も含め、誰も因果は証明できていないようである。今後この分野の一層の研究が待たれるところだろう。とはいえ、個人的には、そもそもフィクション程度に安易に影響されて犯罪に走らないよう、性教育、メディア・リテラシー教育を充実させるほうがはるかに生産的だと思うが…。

もう一つの方向は、非実在児童ポルノの存在により、具体的に実在の児童の「何か」が侵害されるのだ、ということを、説得力ある形で示すことではないかと思う。渡辺の前掲書は、タイトルからするとそもそもはそれが狙いだったのではないかと思われるのだが、批判サイトを見る限りでは、「何か」が何なのか定義することに失敗しているようである。渡辺としては、それは「人権」だと言いたいようなのだが、非実在児童ポルノと実在の児童は何の関係もないわけで、かといっていわゆる集団的人権説を採るわけでもなく、かなり無理のある主張のように思われる。

戦場ジャーナリストと自己責任

シリアで長年武装勢力の人質になっていたジャーナリスト、安田純平氏が解放されたというニュースを受けて、日本のマスメディアでは様々な論評が出ているようだ。個人的には、毎日新聞の記事「<安田さん解放>『自己責任論』に海外経験者ら反論投稿」に違和感を感じた。

というのも、記事に「識者は『海外では唱えられることのない自己責任論が蔓延している状況を懸念」とあるのだが、拘束された戦場ジャーナリストに対し、自己責任の観点から批判が浴びせられることは海外でも決して珍しくないと思われるからである。ついでに言えば、この記事に出てくる人々は別にそんなこと言ってないような…。

例えば、アフガニスタン紛争では多くの欧米ジャーナリストが拉致、拘束されたが、2009年9月には、ニューヨーク・タイムズ紙に所属するイギリス人ジャーナリスト、スティーヴン・ファレルがタリバーン兵士に拘束されるという事件があった。4日後、イギリス軍の空挺部隊がタリバーンの隠れ家を急襲し、ファレル自身は救出されたが、戦闘では彼の通訳、アフガン人の女性と子供、タリバーン兵士らに加え、イギリス軍の兵士も犠牲となった。

ファレルの一行は、そもそもタリバーンの強固な拠点であり、NATOに爆撃されて多数の民間人死傷者が出た直後で殺気立っているアフガニスタン・クンドゥズの近郊に入り、そこでタリバーンに捕まったのだが、テレグラフ紙の記事によれば、アフガンの警察や情報機関には繰り返し危険を警告され、さらには取材した現地の長老にもタリバーンが近づいているから早く逃げろと言われたにも関わらず、現地に留まって拘束されたのだという。

後日、ニューヨーク・タイムズはファレルの件の検証記事を発表したが、その中でタイムズ自身がファレルへの様々な批判を紹介している。例えばデイリー・メイル紙は、「ジャーナリストの栄光への欲望と高すぎるリスク」と題してファレルを批判する記事を掲載した。読者からも、「ジャーナリスト一人を救うのに何という浪費か」、あるいは「世界の危険で不便な場所からの報道はもっとあってしかるべきだが、しかし拘束されたジャーナリストが最も賢明なやり方をとっていたといえるのだろうか?」などという疑問が呈されたという。また、前掲のテレグラフ紙の記事ではイギリス軍高官の話として、「ファレルが受けた警告の数を考えると、この男を救助する価値があったのか、救助で若いイギリス軍兵士が死ぬ価値があったのかと考え込んでしまう。今後似たような事例があった場合、特殊部隊の投入には再考の余地があるかもしれない」と報じている。また別のイギリス軍情報筋は、「このリポーターはアフガン警察の助言を無視してこのエリアに入った。ありがとうスティーヴン・ファレル、お前の無責任な行動のせいで我々の兵士が一人死んだのだ」と吐き捨てたという。

私は、(戦場)ジャーナリズムの意義を高く評価している。また、自国民保護はどのようなケースであっても国の責務だと考える。当時の英外相デイヴィッド・ミリバンドにしても、ファレルが度重なる警告を無視したのは遺憾としつつ、救出作戦を行ったこと自体は特に問題視していない。しかし、危険と分かっている地域に踏み込んで、それで無事に帰ってきたなら良いけれども、失敗して拘束され、他人に迷惑をかけた場合は、少なくともいくばくかの自己責任はあるだろうし、批判も甘んじて受けざるを得ないと思うのである。

ちなみに、テレグラフはおそらくイギリス政府からの情報を基に記事を書いているが、ニューヨーク・タイムズの記事では、途中のアフガン警察の検問でも止められなかったし、警告もされず、アフガン人スタッフも大丈夫だと判断したと述べており、食い違いがある。現地人とのやりとりを担っていた通訳が死んでしまったので、真相は藪の中なのだが。

安田氏が生還したこと自体は非常に喜ばしい。しかし、それと安田氏の取材計画に問題が無かったかは話が別で、今後慎重に問われるべきだろう。いずれにせよ、ファレルの例を見ても分かるように、戦場ジャーナリストの自己責任を問うべきではないなどというのは、洋の内外を問わず常識とは言えないと思う。

民主主義のその先へ(2)

Against Democracy

前回の話の続き。

民主主義においては有権者が意志決定を行うわけだが、その肝心の有権者が有する政治的知識は非常に乏しく、まあそんなことは大昔から皆うすうす気づいていたわけだが、最近の米国ではそれがデータで実証されてしまった、というのが先の話の結論の一つである。また、有権者の知識が乏しいのは必ずしも知的能力が低いからということではなく、合理的と言うか常識的に考えれば、何の得もないのにわざわざ面倒な思いをして政治のことなんか勉強しないよね、というのが「合理的無知」の概念であった。有権者が政治に無知や無関心なのは民主主義のバグではなく仕様、ということだ。

ところで、著者のブレナンが有権者をホビット、フーリガン、バルカンに大別するとき、バルカンは基本的に存在しないものと考えられている。バルカンは想像の産物であって、この世にはホビットとフーリガンしかいない。しかも、政治的に影響力があるのはフーリガンのみなのである。

ホビットはともかく、なぜ我々はバルカンではなくフーリガンになってしまうのか。それは、そもそも人間の精神の働きに「くせ」のようなものがあるからだ、というのがブレナンの主張だ。それを実験や調査で裏付けてきたのが、カーネマンセイラーらの本でポピュラーになった行動経済学や認知心理学である。確証バイアス(先入観と合う都合の良い情報を受け入れがち)、逆確証バイアス(先入観と衝突する都合の悪い情報は受け入れにくい)、動機づけられた推論(信念と合うような結論を導きがち)、内集団バイアス(グループの「内」には甘く「外」を敵視しがち)、可用性バイアス(思い浮かべやすいことほど重視しがち)、事前態度効果(その問題を重視する人ほど極論に走りがち)、あるいは同調圧力や権威への迎合といった、今では広く知られるようになったコンセプトを用いて、ブレナンは我々人間が本来的に非合理であって、客観的で冷静な、ある意味で「非人間的な」バルカンにはなり得ないことを説明しようとする。そして、インターネットによる情報流通やコミュニケーションの容易化は、フーリガンのフーリガンたる由縁をさらに悪化させる方向に働いてしまう。何せ、自分の気に入る情報だけがいくらでも手に入るのだから。

さて、民主主義には、政治参加と議論によって有権者の意志決定の質を上げ、さらにそうしたプロセスを通じて有権者自身をも向上させうるというロマンティックな「夢」があった。しかし、我々がどうしようもなくフーリガンであるならば、こうした夢の前提は崩れてしまうことになる。例えば政治参加に関して、ブレナンは政治学者サラ・バーチ(Sarah Birch)の研究(Full participation: A Comparative Study of Compulsory Voting)を引き、義務投票制(compulsory voting)の国とそうでない国を比較したときに、義務投票制が有権者の政治的知識を向上させるという証拠もなければ、有権者の政治活動がより活発になるという証拠もないことを示す。日本でも投票率を上げるということが自己目的化しているが、政治参加するからといって、それによって有権者の質が高まるというわけではないのである。

そしてブレナンがやり玉に挙げるのが、日本でもポピュラーな熟議民主主義だ。忌憚の無い議論によって有権者の相互理解が進み、それによって意志決定の質が向上する、というのが熟議民主主義の理想だが、ブレナン流に言えば、バルカン同士、あるいはバルカンとホビットなら熟議は成立するものの、フーリガン同士、あるいはフーリガンとホビットでは成立しない。よって、この世界の多くの場合において熟議民主主義は機能しないのである。理論的には、フーリガンは様々なバイアスにより自分の信念とぶつかる意見を受け入れないから、というのが理由だが、ブレナンは政治学者タリ・メンデルバーグ(Tali Mendelberg)の熟議民主主義研究に関するサーベイを基に事例や実験の結果を検討し、実証的にも、熟議民主主義がもたらすメリットは存在しないか、極めて少ないと結論づけている。現実の熟議は、極論同士のぶつかり合い(政治学者キャス・サンスティーンの言う「集団極性化」)か、感情論の応酬か、声高な一部による議論の支配や誘導か、あるいはコンセンサスに至れそうな当たり障りのないテーマに終始するか、そのあたりに落ち着いてしまうのだった。さらにブレナンは一歩踏み込んで、そもそも政治参加や熟議のせいでフーリガンたる有権者の分断や対立が一層進むのだから、政治参加は有害だ、とまで言い切るのである。私は疑り深い人間なので、ブレナンもフーリガンなのだし自分に都合の良い論拠をチェリーピックしているのではないかと思って熟議民主主義に関する文献をいくつかぱらぱら読んでみたのだが、熟議民主主義の困難というタイトルの本が出ているくらいで、それなりに工夫はあるもののブレナンの主張を全否定するというところまではいかないらしい。

ちなみにブレナンは、有権者の多くがフーリガンで認知に偏りがある、ということを前提にすると、コンドルセの陪審定理やホン=ペイジの「多様性が能力に勝る」定理といった、計量政治学の分野で有名な、必ずしも知識や能力がある人間で集団が構成されていなくても、多数決が適切な結果をもたらすことを保証する定理のいくつかが成立しなくなる、という議論も展開している(第7章)。この章でもう一つ面白いのは政治学者マーティン・ギレンズ(Martin Gilens)の研究の紹介で、これまでの米政権の政策は富裕層の選好と付合するということが分かっているそうだ。すなわち、個々の政策に関して、低所得層、中所得層、高所得層、それぞれに支持や不支持があるわけだが、結局のところ高所得層の意向が反映されやすいということである。こう書くと金持ち優遇ではないか、癒着ではないかと批判的に捉える人が多いと思うが、実は、イラク戦争への反対、LGBTQへの寛容、市民的自由の擁護、そして様々な階層への目配りなど、いわゆるリベラルな政策への支持は、所得が上がれば上がるほど高まるということも分かっている。ちなみに、一般的にはネオコンの走狗で金持ちの手先、というイメージが強かったブッシュ(息子)の政権期だけは、低所得層の選好とマッチするのだという。低所得層は、民主党支持であっても実はかなり保守的なのである(これがトランプ大統領誕生につながった)。いずれにせよ、民主主義の本家本元と思われていた米国が、実は金持ちエリートの寡頭支配で、おまけにそれは国民の大多数にとって別に悪いことではなかった、というのはなかなか皮肉で面白い。

まとめると、民主主義は理論的にうまくいきそうにないし、実証的にうまくいっていないし、ではなぜそれが最近までうまくいっているように見えたのかと言えば、実は(少なくともアメリカでは)実質的に民主主義ではなかったから、ということになる。そこで、民主主義がダメというならどうするんだという話になるわけだが、そこでブレナンが持ち出すのがデモクラシーならぬエピストクラシー(epistocracy)というコンセプトだ。元のギリシャ語はエピステーメー+クラティアということで、「知識ある者の支配」という意味になる。すなわち、政治的な権力が、平等ではなく、何らかのかたちで知識の差によって重みづけられる体制がエピストクラシーだ。

この後エピストクラシーの具体的内容の話になるわけだが、切りが良いので続きはまたそのうち。

民主主義のその先へ(1)

Against Democracy

先日のフェイクニュースの話の続き。

米国におけるトランプの当選や英国におけるブレグジット(EU離脱)への賛成が象徴するように、いわゆる先進国でこのところ、民主主義の機能不全が表面化してきた。こう書くと、いやトランプの当選は当然だとかブレグジットの何が悪いんだと言う人もいると思うのだが、私のようなヒラリー・クリントンや米民主党の政策にかなり批判的な人間から見ても、やはりトランプには大統領としての能力が全然無いと思うし、ブレグジットについても、英国が得をすることはほとんど無いというのがコンセンサスだと思う。お世辞にも、賢い選択をしたとは言えない。

トランプやブレグジットは目立つ例だが、ドイツやフランス、イタリアのような他の先進諸国においても、いわゆるポピュリスト(大衆迎合主義者)たちが力を増してきている。米国にしろEUにしろエリートの腐敗というのはあるわけで、反エリートの主張にも一定の意味はあるのだが、総じてこの種のポピュリズム政党は、冷静に考えればつじつまの合わない人気取り政策をぶち上げることが多い。いい加減な主張で離脱キャンペーンをさんざん煽っておいて、投票が終わったあとにあれはウソでしたとあっさり認めた英国のUKIP(独立党)はその最たるものだと思う。しかし、キャンペーン中にも彼らの主張のでたらめさは散々メディアで批判されていたわけで、それでもなお、彼らを選んだのは英国民なのである。昔のヒトラーと同様、完全に民主主義的な意志決定の結果として、変な奴、変な政策が選ばれるということが増えてきている。

このような不合理な結果の、全てでは無いにしろいくつかは、ロシアやら北朝鮮やらの暗躍による、サイバー攻撃やらフェイクニュースやらのプロパガンダによって引き起こされたのだ、という主張もある。確かに、例えばロシアがヒラリー陣営のメールを盗んでばらまいたり、Facebook上でいろいろちょっかいを出していたのは事実らしく(Wikipediaのエントリ)、それはそれで重大な問題なのだが、しかしそれが実際の有権者の投票行動にどこまで影響していたのか、というと、これはまた別の話だ。例えば、トランプに投票した人は高齢者が多かったと言われているが、Facebookユーザの多くを占めているのは若年層で、彼らの多くはヒラリーに投票したのである(Statistaのデータ)。プロパガンダの有無はともかく、その影響の大小を評価するのは極めて難しい。データ・サイエンティスト界(?)のスターとなったFiveThirtyEightのネイト・シルヴァーも、つい最近「非常に難しい」と認めていた。

それはそれとして、多くの有権者がプロパガンダに踊らされたというなら、その理由を考えてみる必要がある。一つは、有権者は本来合理的な判断を下すのに十分な能力を持っていたにも関わらず、巧妙なプロパガンダにうっかりだまされたという見方である。この場合は、先日の話で言えば、ファクト・チェックを徹底するなど、フェイクニュースの供給側を絞れば事態は改善するかもしれない。しかし、もう一つの、より悲観的な見方もある。それは、多くの有権者にはほとんど何の政治的な知識も無く、関心も無く、一方で知識はないのに好みや思い込みとして大きな偏りがあるので、各々の偏りに応じて、自分の見たいものを見て、自分の信じたいものを信じ込み、まことにテキトーに意志決定している、という可能性である。この場合、フェイクニュースはトンマな意志決定の原因ではなく、結果に過ぎないのだ。

後者は、従来だと民主主義批判、大衆批判、あるいはもっとストレートに衆愚批判と言っていいかもしれないが、そう言った文脈でよく語られてきたことで、大昔からよくある話ではある。プラトンの『国家』あたりが嚆矢で、オルテガの『大衆の反逆』やニーチェが代表格だろうか。日本でも、先日亡くなった西部邁など何人か論者がいたように思う。

しかし、今までの民主主義批判は、2つの点で弱いものだった。一つは、論拠の多くが結局のところ論者の主観というか、せいぜい私はこう思いますとかこんなこともありましたというエピソード的なものであって、客観的な説得力に欠けたことである。そしてもう一つは、民主主義への別の具体的選択肢を提示できなかったことだ。まあ、オルタナティヴとしてファシズムや共産主義、あるいは封建主義を唱えた人もいたが、21世紀の今となっては、それほど説得的ではあるまい。

ところが、ここ10年くらい、アメリカのリバタリアン系の若い学者たちが、民主主義批判2.0とでも言うべき著作を多く発表している。邦訳のあるものとしては、原著は2007年に出たブライアン・キャプラン(経済学者)の『選挙の経済学』や、原著2013年のイリヤ・ソミン(法学者)の『民主主義と政治的無知』などがあるが、最近私が読んだこのジェイソン・ブレナン(政治哲学者)による2016年発表の『Against Democracy』が、「反・民主主義論」というタイトルの出落ち感も含めて、読み物として最も読みやすかった。邦訳は出ないかねえ。

これらのどのへんが2.0なのかというと、一つは政治学に経済学、特に公共選択論のノウハウが持ち込まれたということで、これによって、有権者の行動をミクロ経済学的な枠組みで分析できるようになった。もう一つは調査データの分析に基づく議論ということで、人間の政治意識や政治行動に関する調査自体は大昔から世界各地で行われてきたのだが、近年のコンピュータの進歩と相まって、蓄積された膨大なデータを適切に処理できるようになってきたのである。結果として、有権者がどの程度「合理的」なのか、定性的のみならず定量的な話が出来るようになってきたわけだ。

では、こうした最近の計量政治学の研究からどういう結果がもたらされたのかというと、これがあまり元気の出る話ではない。というのは、調査やアンケートにより、少なくとも米国では、データ的に「有権者は本当に何も分かっていない」ということがほぼ立証できてしまった、というのが、この本(および類似の研究)の一つの柱だからである。

選挙期間中にも関わらず、自分の選挙区から出馬している候補の名前を一人も挙げられない、現在議会で多数派を占めているのが共和党なのか民主党なのか分からない、三権分立の三権が何か分からない、自分が「支持」する政党の政策を全く理解していない、ある政策が共和党政権下で推進されたのか民主党政権下で推進されたのか分からず、ブッシュやオバマが実際にはやらなかったことに関してけしからんと思い込んでいる、憲法が大事と言いつつ、そもそも憲法でどのような権利が保障されているかほとんど理解していない、ひどいのになると、社会主義を蛇蝎のごとく嫌っている(とされている)にも関わらず、「From each according to his abilities, to each according to his needs」(能力に応じてではなく、必要に応じて与えられるべきである)という一節が米国憲法に入っていると思い込んでいる(これは本当はマルクスの言葉で共産主義の有名なスローガン)などなど、ブレナンの本の第2章には様々な調査結果の事例が挙げられている。この章のタイトル「Ignorant, Irrational, Misinformed Nationalists」(無知で、非合理的で、誤った知識を持つ民族主義者)というのが、ブレナンらがデータで描き出す米国の有権者像なのだ。日本に関しても、似たような調査をすれば似たような結果が出るのではないかと思う。

問題が有権者の知識不足だけならば、教育を充実させる等の手は打てるかもしれない。しかし、ここ40年、進学率は高まる一方で、図書館やインターネットから低コストでいくらでも知識が手に入るのに、40年前と政治に関するリテラシーのレベルはほとんど変わりがないという調査もある。だからといって、有権者が総じてバカというのも早計だろう。当然有権者(の大多数)がバカなわけではなくて、むしろ「合理的であるがゆえに、政治に関して勉強しない」というほうが、説明として理にかなっている。これが、「合理的無知」(rational ignorance)の考え方である。貿易政策にしろ、エネルギー政策にしろ、きちんと理解するには膨大な量の勉強が必要となるわけだが、勉強して自分の考えを確立したところで、自分の一票が政策に影響を与える可能性は宝くじが当たる確率並みに低い。知識を得るのにかかるコストが期待される利得を大きく上回るので、そもそも苦労して学ぶインセンティヴが無いわけだ。

さらに、大多数が本当にまっさらな無知で、政治に全く関心が無いならば、トンマな意志決定は賛成と反対で大体打ち消し合うはずで、結果として1%だか2%だかの知識がある人がキャスチングボートを握る可能性が高い(「集計の奇跡」と呼ばれる)。しかし実際には、自分にとって合理的な選択よりも、自分の信念やバイアスに適合する選択を重視するという人が多いのである。

ブレナンは、このあたりの事情をなかなかうまい表現で説明している。彼は、有権者をホビット、フーリガン、バルカンの三つに大別する。ホビットはいわゆるノンポリで、有権者の大多数を占めている。政治に対して関心はない。対してフーリガンは、スポーツ・ファン的にある党派やある政策を熱狂的に「応援」していて、ホビットよりは政治知識があるのだが、正確というわけではない。非常に偏った思い込みがあり、理性よりは感情を優先する(数学の成績がよく知的能力が優れていると思われる人ですら、自分の政治的志向と相容れない意見は合理的であっても受け入れないという研究がある)。バルカンはスタートレックに出てくるミスター・スポックのように常に冷静で、偏見に惑わされることなく意志決定が出来る少数派である。で、当然バルカンは(自分がそうだと思い込んでいる人は多いかもしれないが)ほとんどいない。結局実際に熱心に政治参加するのはフーリガンで、それにホビットが煽られるという構図である。また、自分の商売でトンマな意志決定をすると金銭的、社会的に大損害を被るが、先にも述べたように一票の重さは限りなく軽いので、自分の一票が結果に影響を与えるとは考えにくい。このため、選挙における投票はいわば自己表現の手段となってしまう。結果として、誰の得にもならないような変な選択肢が選ばれてしまうということになる。

このへんまではキャプランの本にも書かれていたことで、実はそんなに新味はないのだが、ブレナンの本はこの先で民主主義への(ぼんやりしたものだが)代替案を出しているところがおもしろい。続きはまたそのうち。

フェイクニュースの需要と供給

下馬評を覆しドナルド・トランプの勝利で幕を閉じた2016年の米国大統領選挙や、これまた事前の予想を覆すブレグジット(EU離脱)賛成という結論が出た英国の国民投票において、主にネット上でばらまかれる虚偽情報、いわゆる「フェイクニュース」が大きな役割を果たした、ということになり、洋の内外を問わず様々なところでフェイクニュースを巡る議論が盛んに行われるようになった。私もいくつかカンファレンス等に参加したのだが、率直に言って、個人的には違和感のある議論が多かったように思う。

なぜ違和を感じたのか自分なりに考えてみたのだが、フェイクニュースについて発言する論者の多くがメディア関係者のせいか、どうもフェイクニュースの供給側に偏った議論が多いせいではないかと思われる。供給側の議論とは、ようするにフェイクニュースをばらまくメディアの側に問題があるということで、例えば業界団体による自主規制であるとか、ファクト・チェックであるとか、情報技術による自動検出とか、嘘を嘘と見抜くためのメディア・リテラシー教育とか、そのあたりが処方箋ということになろう。

それらはもちろん重要なことだ。しかし、フェイクニュース対策として真に役立つかというと、私にはとてもそうは思えない。なぜならば、フェイクニュースの需要側の問題から目を背けているからである。

行きがかり上、海外のろくでもない極右陰謀論サイトを毎日見物し、ろくでもないFOXニュースをくそまじめに視聴している私は、多分日本で一番(少なくとも米国がらみの)フェイクニュースを熱心に見ている人間だと思うのだが、その経験からしみじみ思うのは、フェイクニュースをニュースだと考えると話が分からなくなるということだ。では何なのかというと、思うにフェイクニュースはニュースよりポルノグラフィに近いのである。

どのへんがポルノかというと、一言で言えば「見たい奴に見たいものを見せている」ということだ。ポルノが作り物だの演技だのと言って気にする人はいないと思う。作り物だろうがなんだろうが、自分を興奮させてくれるものを求めるわけだ。それと同じで、そもそもフェイクニュースを消費する人の多くは、正確性や事実を重視していないのである。あからさまにおかしな話でも、見て楽しければそれでよいのだ。すなわち、フェイクニュースは事実の正確な伝達というニュースの伝統的役割とは無縁のものであって、扇情や価値観の共有・強化こそが最重要なのである。だから、あれは本質的にニュースではなく、エンターテインメントに属するものなのだと考えたほうがよいと思う。

一般に不動産王、実業家と見なされているトランプが、実のところ商売では失敗続きで、実質的にここ20年ほどは単なる人気テレビ・タレントだったこと、私のような保守派から見てもなんだこれはというようなフェイクニュースの多いFOXニュースが、なんだかんだ言って16年間ずっと全米ケーブルテレビ視聴率トップであることが、ある意味証明しているように思うのである。フェイクニュースにだまされているのではなく、フェイクニュースを積極的に選ぶ層というのが相当数存在するということだ。そういった人々へ「正しい」情報を提示することに、果たしてどれくらい意味があるのだろう?

で、ここが重要なのだが、私は実のところ、フェイクニュースが蔓延すること自体が悪いことだと思っていないのである。むしろ、フェイクニュースがニュースであることを前提に、フェイクニュース対策としてオンラインの規制や検閲が世界的になし崩し的に強まりつつあることを懸念している。何が「悪い」言論かは、あくまで立場の問題だからだ。ただ、ここで私が述べたいのはそうした話ではない(そういう話も前に書いたけれど)。

端から見れば異様で事実に基づかない非合理な妄想(トランプ周辺の連中は、いみじくもオルタナティヴ・ファクトと呼んでいたが)であっても、それを信じ、いわばファンタジーに浸って生きる権利が誰にもあると私は思うのである。言い換えれば、人間には愚行権があるということだ。これこそが内面の自由、あるいはこう言うと怒る人もいるかもしれないが、信仰の自由の本質だと私は思うのである。だから、軽く扱ってはならない。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

しかし、ジョン・スチュアート・ミルが『自由論』で述べたように、愚行権は他者危害排除の原則で裏打ちされている。馬鹿な話を信奉して馬鹿なことをするのはあくまで当人の勝手だが、それに他人を巻き込んで危害を与えてはならないということだ。そして、政治はしくじると他人に(場合によっては生命に関わるような)被害を与えうる分野である。だから、フェイクニュースを享受しファンタジーに生きるなら、政治に参加してはならないし、させてもならないという結論が導かれる。すなわちフェイクニュースが問題なのではなくて、フェイクニュースで意志決定が左右されるような人々が担う、現状の民主主義という仕組みそのものがどうかしているのではないか、という議論になるわけだ。

実はここまでは話の枕でありまして、このあと最近読んで面白かった本の紹介をするつもりだったのですが、それはまたそのうち。

Against Democracy

自衛のための勉強法

長谷川豊というアナウンサーが、ここしばらく派手に「ネット炎上」していた。人工透析患者の大多数は暴飲暴食の果ての自業自得なので殺してしまえ、というようなことを、乱暴な口調でおおっぴらにブログに書いたからである。

人工透析を余儀なくされる理由は不摂生だけではないし、そもそもそれなりに影響力のある人物が殺人を扇動するようなことを書くべきではない。粗雑な論であることは言を俟たない。

とはいえ、どんなにろくでもないことでも書くのはそいつの勝手だと私は思っているのだが、問題は書いた後である。当然ながら長谷川は多くの批判を浴びたわけだが(そのうちのいくつかは、極めて懇切丁寧に長谷川の主張の問題点を指摘していた。たとえばこれ)、長谷川としてはあくまで問題は書き方であって、自分の主張そのものが間違っている、ということには思いが至らないらしい。患者団体等からの抗議にも誠実に向き合っているとは言えない。

一方で、私は同情こそしないものの、ある意味長谷川は気の毒だとは思っている。というのも、結局のところ彼は変な取り巻きに変なことを吹き込まれて、それが変であることに気づけなかったからである。長谷川のバックには「医信」という若手医師のグループがあり、長谷川をいわばメガホンとして使っていたふしがある(リテラの記事)。そのくせ長谷川が炎上した後、連中は助け船も出さずに口をぬぐって逃亡したようだ。

また、長谷川ほど発信力が無いだけで、内心珍説謬見を信奉している人というのは結構いる。先日も、それなりに名のある大学の教員で、まあその人の専門分野ではなかったものの、ずいぶんおかしなことを言っている人がいて呆れたことがあった。

ところで、これらの話が真に恐ろしいのは、間違っているのは実は私のほうという可能性が常にあるということだ。私はここまでの文章で、気楽に「間違った」考え等と書いてきたが、そもそも自分が間違っているかどうかは、自分だけでは判定できないのである。

ようするに、

  • 誤った情報を学んでしまい、そのまま鵜呑みにしてしまう
  • 批判されたとき、それをきちんと咀嚼して評価することができない

というのが、長谷川的な問題の本質ではないかと思う。これはある程度の知的能力というか知的鍛錬がないと、長谷川のみならず誰もが陥る可能性がある罠である。むしろ、自分は知的で正義だと思いこんでいる、リベラルを以て任じる人のほうが落ちやすい陥穽のようにも思う。

ではどうすれば落とし穴を回避できるだけの知的能力が身につくかというと、それはもう勉強するしかないわけだ。その意味で、私は勉強は自衛の手段だと考えている。しかし間違ったことをひたすら勉強しても意味がないわけで、それなりに戦略的に学ぶ必要がある。この点について思いつくことをいくつか書いてみたい。まあ、私はこうしてるよ、という程度の話でしかありませんが。

インプット

その道の専門家になるつもりなら、本やら論文やらを手当たり次第にがんがん読むしかないだろう。しかし多くの人は何かひとこと言いたいだけで、別にその分野を究めたいわけではないだろうから(もちろん専門家でもないのに口を挟むなという考え方もできるが、それは弊害が多いと私は思う)、最低限のラインをどこへ引くかという話になると思う。

徒然草ではないが、何事にも先達はあらまほしきもので、自分に土地勘のない分野を学ぶなら、本来は指導者というか「先生」がいたほうがよい。ただ、長谷川の取り巻きの医者たちのようにそもそも先生が怪しい人だったりすることもあるので、なかなか難しい。先生がまともかどうかを見抜くことは、原理的に生徒には出来ないのである。若干疑いつつも、あるところまでは素直についていくしかないのかもしれない。先生の名前をネットで検索して評判を探る、というのも一つの手ではあるが。

そんなわけで、先生の存在を前提とせず、それでもとにかくある分野に関して何かもの申したいのあれば、一冊だけではなく、事前に三冊くらいはそのテーマに関する本を読んだ方が良いと私は考える。これが最低ラインである。といっても似通った主張の本をいくら読んでも仕方がないわけで、一冊はできれば教科書的なバランスの取れたもの、あとは自分の(現時点での)考えに近いものを一冊、そして自分の見解とは正反対の(ように見える)ものを一冊読むとよいだろう(当たり前だが、筆者はそれぞれ違うほうがよい)。レベルとしては、専門書とは言わずとも、せめて新書以上であって欲しい。薄い本でも三冊も読めば、自分が思っていたよりもこの問題は微妙でややこしそうだぞ、くらいの警戒心は芽生えるのではないかと思うのだが。

なお、「バランスの取れた教科書」というのを選ぶのが一番困難なわけだが、まあAmazon.co.jpとかで適当に検索して一番評判が良いもの、というくらいでとりあえずは良いように思う。大学生ならば、その分野に近い教員に聞けばよい。Wikipediaの該当ページも、特に日本語版の場合、記事そのものはあてにならないことが多いが、記載されている参考文献は手がかりにはなる。

熟成

こういうのはただ本を読んだだけではダメで、やはり自分の中で知識を「熟成」させる必要がある。具体的な目安として、ブログも含めて何か公の場で書きたいのならば、自分が賛成する意見はもとより、自分が反対する意見に関しても、ある程度まとまった内容として説明できる、というレベルには最低でも達していたほうがよい。味方を知り、そして敵も知らなければ、説得力のある批判も擁護もできない。また、自分と対立する意見の内在的論理をある程度理解しておかないと、批判された際にそれを適切に解釈することが出来ないとも思うのである。

こうしたスキルを身につけるには、大学のゼミでやるような、輪読→レジュメ作り→人前で口頭発表というのが本来は一番良い。また、立場を入れ替えて、場合によっては自分の意見とは異なる主張を組み立てなければいけないディベートも優れた訓練となる。日本ではディベートというと、詭弁を弄して相手を打ち負かす、というようなあまり良くないイメージがあるように思うが、本来ディベートは個人的な学びの機会だと私は考えている。

アウトプット

私自身は、賛否両論というか、支持が50%、反対が50%の文章を書きたいと常々思っている。支持100%の文章は、もちろん極めて出来が良くて非の打ち所がない、というケースもあり得るけれども、大方は、毒にも薬にもならないから批判すらされない、というケースが多い。せっかく手間暇かけて書くのだから、良きにつけ悪きにつけフィードバックが欲しいのである。実のところ私は、自分よりも賢い人にうまく論破されたいといつも思っているのだが、まあそういうマゾ的な人は少ないかもしれない。

一方、反対が100%に近いとしたら、それは自分の書いたものがおかしい可能性が高いと考えるべきである。もちろん単なる嫌がらせが大多数かもしれないし、批判が多いイコール間違っているというわけではないのだが、少なくとも自分の主張がうまく伝わっていない可能性は高い。なので、反対意見をいつにもまして精査する必要があろう。裏を返せば、思うところを書いて批判に晒されるというのは、最良の勉強法とも言えるのである。

レイシズム2.0としてのアイデンティタリアニズム

しばらく前、「はっきり呼ぼう、alt-right(オルタナ右翼)はまごうことなきレイシストだと」(Call the ‘Alt-Right’ Movement What It Is: Racist as Hell)という記事がRolling Stoneのウェブサイトに掲載された。

確かに、オルタナ右翼の言動にはいわゆるレイシスト的要素が色濃く感じられる。その一方で少なからぬ数のオルタナ右翼が、自分たちはレイシストではないと主張してもいるのである。もちろん単なる詭弁、言い逃れという面もあるのだが、彼らの言い分を少し追ってみたい。

理解する上で鍵となるのは、「アイデンティタリアニズム」(Identitarianism)という思想ではないかと私は思う。オルタナ右翼の代表的な論客の一人であり、「alt-right」という語を考案したとされるリチャード・B・スペンサーは、自身をアイデンティタリアンだと規定している。

スペンサーが編集主幹を務めるオンラインメディアRadix Journalでは、昨年(2015年)「私がアイデンティタリアンである理由」がテーマのエッセイ・コンテストを開催していた。それに寄せたコメントで、彼はアイデンティタリアニズムについて以下のように述べている。

第一に、アイデンティタリアニズムとは、アイデンティティを精神的、知的、(メタ)政治的運動の中心に、そして中核的な問題に据える思想である。言い換えれば、アイデンティタリアニズムは、経済や人権、公共および外交政策等々に関する単なる一論点ではない。アイデンティタリアニズムとは、こうした問題の全て(他にもいろいろあるだろう)は、より大きな問いを問うことによってのみ解決できるという主張である。それは、我々は何者なのか?我々は何者であったのか?我々は何者になるのか?という問いだ。そして、アイデンティティとは、(そうである場合もあるが)単なる血の呼び声ではない。

第二に、アイデンティタリアニズムは20世紀において標準的な、左翼/右翼の二分法を回避する(多くのアイデンティタリアンは右翼出身だが)。アイデンティタリアニズムは、今までと異なる新たな視点、そしてしばしば「左派」や「右派」として切り分けられてしまうエネルギーの統合に対して開かれている。「自由市場」「社会正義」あるいは「世界平和」とは我々にとって何であるのか、そのような語の意味を問い、そして我々の将来にとってそれらがどのような意味を持つのかを判断する必要がある。

第三に、アイデンティタリアニズムは「ナショナリズム」という語、およびその歴史と言外の意味を回避する。実際、アイデンティタリアンの中心的意図の一つは、ヨーロッパにおける「他者」への憎悪の咎で断罪された、最近の歴史的記憶におけるナショナリズムの克服である。

小難しく書かれているので意味が分かりにくいが、それでも何を言いたいかはだいたい分かる。まず、アイデンティタリアニズムは、ようはアイデンティティ至上主義なのである。ここで言うアイデンティティとは、ある集団が持つ文化や慣習、価値観を意味するようだ。スペンサーのようなアメリカの白人にとっては、それは西洋的な文化や慣習、価値観ということになろう。アイデンティティの問題が、経済的メリットや外交的配慮等に優先する、というのがアイデンティタリアニズムの基本的な主張ということになる。

(狭い意味での)レイシズムは、レイス、すなわち人種に基づく差別だった。例えばアメリカでは、黒人種や黄色人種といった白人種以外の人種を劣等人種と見なして差別したし、ナチス・ドイツはユダヤ人を、ユダヤ人という人種であるがゆえに虐殺した。

しかし、アイデンティタリアニズムは、一義的には人種を問題にしているわけではない。例えばアメリカでなら、黒人やユダヤ人、あるいは日本人が、西洋的な価値観を受け入れて西洋風に暮らせばそれでよい、ということになる(なお、アメリカにおいて、というか多くの先進国において信教の自由は絶対なので、別にキリスト教への改宗を求めているわけではない)。西洋的価値観といっても別に大した話ではなく、良き隣人として仲良く暮らしてください、という程度の意味だ。一方で、なかなか移住先に同化しない移民はもちろん、例えば人種的には白人であっても、イスラム国に洗脳されてアメリカでテロをやるような手合いは、価値観を共有していないので差別の対象となるわけだ。これが、アイデンティタリアンが自分たちはレイシストではないと主張する根拠である。レイスではない、問題はアイデンティティなのだ、と。

とはいっても、世の中には価値観が合わない、アイデンティティが異なる集団が多くある。昔なら、あるいは白人/西洋至上主義の立場に立つなら、そういう集団は劣っているのだから征服して教化しようとでもいう話になったのだろうが、さすがに現代に生きるアイデンティタリアンはそこまでは言えない。彼らが主張するのは、棲み分け(enclave)である。同じアイデンティティを持つ集団は、わざわざ他と混ざらずに、それぞれが元々住む地域で棲み分ければよいではないか、という話だ。これは、単純な移民排斥の論理ではない。自分の価値観、例えば宗教的規範に固執したいなら自分の国(あるいは地域)にいろ、勝手にしろ、こっちへ来るな、さもなくば歓迎しますよ、ということなのだ。なお、スペンサーは白人至上主義者とされることが多いのだが、彼自身はそうではないと主張していて、上記のような理解に立つなら、彼の言い分にも一理あると言える。ちなみに、先日スペンサーは(観光で)来日していたらしく、「ヒラリー・クリントンが演説でalt-rightに言及してくれたのはありがたい」「日本は国民国家なので多様性の問題が無く平和で素晴らしい」などと余裕綽々に語っていた。

このようなアイデンティタリアニズムが支持を得る背景には、例えばアメリカにおいては移民が増えて、白人とその文化がマイノリティになり、社会が荒廃しつつあるという現状認識がある(これが正当かは議論の余地があるが)。マイケル・アニッシモフという人がいるが、彼はアイダホ・プロジェクト(Idaho Project)という小冊子を書いた。

Idaho Project (English Edition)

これは、ごく簡単にまとめれば、アイダホ州は元々白人が圧倒的多数なので(というか、そもそもあまり人間が住んでいないので)、ここに白人みんなが移住して固まって暮らそうという主張である。間抜けな話に聞こえると思う(し、まあ間抜けな話であることは間違いない)が、私はこの主張は図らずも重要な論点を浮き彫りにしていると思う。それは、多様性を同質性よりも優先すべきなのか、という問いである。(日本のように!)アイデンティティが同質なコミュニティのほうが、平和で軋轢がなくて良いではないか、何が悪いのか、という考えは海外でも根強くある。対してリベラルは多文化主義や国際主義を無前提に善と思いがちだし、それに異議を唱える人に対してレイシストや旧弊のレッテルを貼るのに躊躇しない。しかし、多文化共生の理想は麗しいものの、実際にはきれいごとばかりでは済まないのもまた事実である。少なくとも、それによって割を食う人々というのは相当数いるのだ。そこには目をつぶり、市井の人々が抱いた素朴な違和感を(SJW流に)抑圧したのが、こうした人々をオルタナ右翼へ追いやり、その伸張を許した原因の一つだと私は思う。しかも、先に書いた話と関連づけると、相互不可侵で他の集団には手を出さない、という意味では孤立主義的な心情が強いペイリオコンと、そして個人の自由を重視して似たような志向の人で集まって暮らしましょうという意味ではリバタリアン的な心情とも整合性がある。

ちなみに、アイデンティタリアニズムはスペンサーの独創ではなく、実はアメリカ発祥でもない。そもそもはヨーロッパ、フランスで生まれた思想だそうで、フランスやドイツ、オーストリア、イタリア、スロヴェニアで勢力を伸ばし、少し違うがロシアでも似たような動きがあるらしい。マーカス・ウィリンガーというオーストリア人の大学生が書いた「アイデンティティ世代:68年世代への宣戦布告」(Generation Identity: A Declaration of War Against The ’68ers)という本が、ヨーロッパにおけるアイデンティタリアニズムの代表的文献とされているようだ(私は未読)。

Generation Identity (English Edition)

この本のタイトルからも明らかなように、ヨーロッパにおけるアイデンティタリアニズムはなかなか面白い展開を見せている。というのも、世代間闘争の要素が含まれているのだ。1968年ごろ青春を過ごし、ラジカルな左翼運動に強く影響されたベビーブーマー世代を「68年世代(’68ers)」と呼び、彼らこそが、多文化主義だの国際化だのフェミニズムだのといったリベラル的価値観を考え無しに後続の世代に抑圧的に押しつけた問題の元凶だ、と主張するのである。

また、フランスではBloc identitaire、アイデンティタリアン・ブロックという政治運動があり、これはフランスで近年勢力を伸ばしている極右政党、国民戦線と関係があるようだ。国民戦線は、創設者で前党首のジャン=マリー・ル・ペンは反ユダヤ主義でいわば昔ながらのレイシストだったのだが、現党首で娘のマリーヌ・ル・ペンは基本線をアイデンティタリアニズム的なものに置いていて(ゆえに父親を追放した)、それが支持基盤の拡大に功を奏しているらしい。そしてヨーロッパにおけるアイデンティタリアニズムは、アイデンティティ集団ごとの棲み分けと分権化を目指すという点で、結局はEU解体の思想なのである。

ちなみに、経済学者でハーバード大学教授のダニ・ロドリックは、ブログで世界経済の逃れられぬトリレンマという説を唱えたことがある。

  1. グローバリゼーション(経済統合の深化)
  2. 国民国家(国家主権)
  3. 民主主義の政治

のうち、どれか二つをとれば、残りの一つは達成できないという仮説だが、グローバリゼーションと国家主権をとって民主主義をあきらめるのが共産党が支配する中国、グローバリゼーションと民主主義をとって国家主権をあきらめるのがEUだそうである。とすると、アイデンティタリアニズムはグローバリゼーションをあきらめることで、国家主権と民主主義を維持しようとする試みなのかもしれない。

アメリカとヨーロッパにおけるアイデンティタリアニズムの流れを眺めると、ある種複雑な感慨を覚える。というのは、私は似たような動きを前に見た覚えがあるからである。抑圧されてきた階層がネットを介して「声」を獲得し、なにがしかの社会変革を起こす。2010年ごろから始まり、中東やアフリカを席巻したアラブの春は、まさにこのようなものだった。その意味で、我々は、「欧米の春」を目撃しているのではなかろうか。