「藁人形(straw man)論法」という言葉があるが、日本では「議論において相手の主張を歪めて引用し、その歪められた主張に対して反論するという誤った論法」というような説明がされることが多いようだ。これは必ずしも間違いではないが、相手の主張を「歪曲する」というところに主眼を置くと若干ニュアンスがずれるというか、なぜ「藁人形」や「カカシ」になぞらえるのかが分かりにくくなるような気がする。

歪曲といっても、相手が白と言っているのを黒だとねじ曲げる、実際には言っていないことを捏造するということだけを問題としているのではない(そういうのも含まれるけれど)。むしろある主張のうち、いちばんトンマなバージョンを選んで攻撃することで、本当の意味では論破できていないのだが、論破したような気になる、というやり口が主眼だ。それが、生身の人間ではなくニセモノのカカシを撃っていい気分になるというたとえとつながる。

そういう意味での藁人形論法を私も使ってしまいがちだが、これはよくない。なぜやってしまうかといえば、そっちのほうがラクだからで、弱い相手を選んでやっつけたほうが簡単なのは言うまでもない。しかし、どんな分野にもピンからキリまであるわけで、キリは論外でも、ピンには常になにがしかの真実が含まれている。

例えば一口に天動説の信奉者といっても、単に無知蒙昧で迷信深いだけの者もいれば、プトレマイオスもいる。「アルマゲスト」に書かれた彼の天動説は数学を駆使した精緻なモデルで、当時の地動説よりよほど正確に天体の動きを説明した。正直言って、今プトレマイオス先生がよみがえったら、私が彼を論破できるとは到底思えない。そもそも歴史的にも、彼の天動説を反駁するのに千数百年以上を要したのである。そして、プトレマイオスを論駁しなければ、結局のところ天動説の息を止めるということにはならなかったのだ(余談ながら、こういうことを言うといろいろな人に怒られそうだが、率直に言えば今の経済学や経営学は、実はプトレマイオスの天動説のようなものなのではないかと思うことがたまにある)。

アルマゲスト (日本語) 単行本 – 1993/7/1

ゆえに、フェミニズムでもリベラルでもファシズムでもオルタナ右翼でも何でもよいのだが、ある説を論破したかったら、そのアラばかり探すのではなく、むしろその立場の最善最強の言説を相手にしなければならない。そういう最強の論敵がいなければ、自分で相手の立場に立って自ら最強の理屈を組み立てて、それをやっつけなければならないのである。もちろん相手の立場を、場合によっては相手以上に勉強しなければならず、手間暇がかかるし、時として精神衛生上もあまりよろしくない。でも、やるんだよ。

私自身は(往々にして持論とは逆の立場を持たざるをえない)ディベートでこの種の態度のようなものを学んだのだが、最近ではこれを「鋼鉄人形(steel man)論法」と言うらしい。この言葉はピーター・ティールに帰せられることが多いようだが、別にティール創案というわけではなく(確かにティールはスティールマンという言葉はよく使うが、彼も自分がオリジナルだとは言っていないように見える)、もっと前からある言葉のようではある。ティールいわく

「我々には、自分と立場の異なる相手をその戯画におとしめてしまう傾向がある。相手の内でいちばん弱い者を藁人形にしてしまうということだ」とその夜ティールは述べた。「主張を『鋼鉄人形』化する方法を見つけなければならない。相手の主張を可能な限り理解するためには、相手の主張を可能な限り最も強力な形で構成する必要がある」。ティールは、トランプのポピュリズムは一過性の政治運動に過ぎないかもしれないと認めた。「左派はそのうちまた勝つことが出来るようになるだろう。しかしそれは、鋼鉄人形的アプローチによるものでなければならない」「なぜ『メイク・アメリカ・グレート・アゲイン』が停滞に直面した人々に対して力強い主張になったのか理解しなければならない。トランプへ投票した人に対し、ただとっとと死ねというのではなく、もっといろいろ言うべきことはあるはずだ」