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米国のポピュリズムと象徴資本主義のたそがれ

man holding stop pretending your racism is patriotism!!! signage

何年も前のことだが、サンフランシスコで米国のある非営利団体を訪問したことがある。非営利団体とはいえ有力アドボカシー・グループなので、職員は一流大学やロースクールを出たようなエリートばかりだ。事務所でしばらく歓談ののち、みんなで飯を食いにいくことになったのだが、相手をしてくれた人がこう言った。あっちはホームレスがいっぱいいるから、避けてこちらの道を行きましょう。

たしかに客が危ない目に遭わないよう配慮するというのはありがたいことだが、しかし私はへそ曲がりなので何かしらひっかかるものがあった。あなたがたが本当に相手にしなければならないのは、 彼ら ではないのか?

ドナルド・トランプが米大統領に返り咲く、それも地域性に引きずられる選挙人団投票数だけではなく、総得票数でも上回って、という話を聞いて思い出したのがこのエピソードで、さらには最近出たこの本だった(約1年前に書かれたダイジェスト的な文章)。

著者のムーサ・アル・ガルビは現在ストーニーブルック大学助教をつとめる社会学者である。名前は中東系だが実はアリゾナの軍人家庭の出身で、双子の兄弟はアフガニスタンで戦死している。

2014年、アリゾナ大学で働いていたアル・ガルビは、書いた記事のせいで批判やら脅迫やらが殺到し職を追われた。イスラム国ことISISの台頭は米国の中東政策の失敗のせい、という論旨が、(おそらくジハーディストぽい名前と相まって)反米的とされ、FOXニュースを始めとした右派メディアに袋だたきにされたのである。キャンセル・カルチャーというと今では左翼の専売特許のようなところがあるが、彼は右翼のそれの犠牲になったのだった。

数年間学問とは関係無い仕事をした後、彼はいわゆる「ウォーキズム」の総本山の一つであるコロンビア大学の社会学博士課程に再入学する。周りとはバックグラウンドが違う年の行った学生として彼が見いだしたのは、社会的、特に人種的な正義を金科玉条とする一方、自分たちの身近に存在する明らかな不正義は全く見えていない人々だった。マンハッタンを埋め尽くすブラック・ライヴズ・マターのデモ隊の目の前にいたのに放置された黒人ホームレス。違法移民の強制送還は非人道的だと抗議する一方、自分たちは家でマイノリティの移民を家政婦として安くこき使っている、高学歴で多忙で裕福で意識の高い若者パワーカップル。

米国社会における分断は、人種や地域、学歴、収入、政治的党派、あるいは性別に帰せられることが多い。しかしアル・ガルビは、それらは結局のところ代理変数に過ぎないとする。では、何が真の境界線なのだろうか?

アル・ガルビは、フランスの社会学者ブルデューが唱えた「象徴資本主義」というコンセプトを援用して説明しようとする。彼が象徴資本主義者と呼ぶのは、「象徴と修辞、イメージと物語、データと分析、アイデアと抽象化を扱う専門家」だ。ようするにいわゆる知識労働者、ナレッジワーカー全般である。研究者、官僚、ジャーナリスト、弁護士、コンサルタント、広報、科学者、プログラマー、芸術家、社会活動家など、ホワイトカラーとひとくくりにされることもある人々だ。簡単にいってしまえば「頭を使って仕事する」のが得意で、苦にならない人々である。インテリ知的エリートと言ってしまってもよいだろう。

現代の社会は彼らに有利なように構成されていて、近年の経済成長の果実の大半も彼らが享受している。そして、現在の米民主党の支持者は圧倒的にこの階層である。よってアル・ガルビによれば、米国における最も重要な分断は、こうした知識経済産業に関係する専門家と、それ以外の労働者階級や非白人を含む知識経済の「敗者」との間にあるということになる。米共和党の支持が強いいわゆるレッド・ステートであっても、都市部や大学町は多くの場合米民主党が選挙で圧勝するというのは、その州における前者が多く都市に住んでいるからに他ならない。というか、逆に言えばごく限られた地域にしか住んでいないのである。

こうした人々は、人種や地域を問わず、ジェンダーや人権、環境問題といった文化的問題においては、ブルーカラーや零細自営業を含む「非」象徴資本主義者(田舎の貧乏白人はもとより、黒人やラティンクスなどマイノリティや移民もこの階層であることが多い)と比してますます進歩的になっている。宗教などの伝統や地理的制約から切り離された知的エリートにとっては、社会のリベラル化、グローバル化、AIを始めとした技術革新によって得られるもののほうが、失うものよりも圧倒的に多いからだ。実際、アル・ガルビが引用する統計学者のアンドリュー・ゲルマンによれば、共和党、民主党といった党派の違いを超えて、各党のエリートはそれぞれの党員層に対して経済的により「右」(経済的に新自由主義的)である一方、文化的にはより「左」(文化的に進歩的、寛容)である傾向があるという。高収入、高学歴で知的なエリートが文化的自由主義と経済的保守主義に引き寄せられるというのは、エリートに共通した傾向なのである。

一方、社会学者シャマス・カーンによれば、エリートの経済学は社会の他の部分とは逆方向に働く傾向があるという。エリートにとって好都合なことは、他の誰にとっても不都合であることが多いのである。先日取り上げたロブ・ヘンダーソンの贅沢品としての信念の議論にもあったが、移民などグローバリズムの負の側面は、「非」象徴資本主義者により多くのしかかるわけだ。言い方を変えれば、知識経済の専門家は、他の多くの米国人、特に労働者階級とは正反対の好みを持つ傾向がある。更に悪いことに、当のエリートは実際の選好よりも自分が「左」寄りであると思い込む傾向があるので、口先では社会正義の実現に意識が高い一方、 実際に 身銭を切ったり汗をかいたりして格差を是正するということには本当はあまり興味がないのである。これは、従来「非」象徴資本主義者からエリートが主導権を握る社会機構へ寄せられてきた信頼の喪失や疎外感の原因ともなっている。

知的インテリは抽象概念の知的操作が得意で、また自分たちと同じエリートからの支持や報酬の獲得に最適化されているので、どうしてもコミュニケーションのスタイルが学術的、高踏的になりがちだ。その最も攻撃的な形態が言論による論争や非難だろう。右派にキャンセルされたアル・ガルビ自身がそうだが、キャンセル・カルチャーも結局は左右の問題というより、象徴資本主義そのものの病理なのである。2021年1月6日の米連邦議事堂襲撃事件のように、「非」象徴資本主義者が暴力に奔り、そしてそれを特に問題視しないというのは、このことの合わせ鏡だろう。また、これがドナルド・トランプのようなポピュリストの伸張を可能とした最大の原因といえる。トランプは、下品で嘘まみれではあっても、彼らに伝わる表現で語りかけたのだ。

個人的にはリチャード・ホフスタッターあたりの反知性主義の議論とつながる話でそれほど新味があるわけではないが、なかなか興味深い。米国と日本は状況がずいぶん違うので、アル・ガルビの議論が直接当てはまることはあまり無いと思うが、今回の衆院選で左右を問わず反知性主義的傾向が強い(ように見える)政党がそれなりに伸張したのは、なにかしら相通ずるものが生じつつあるのかもしれないとも思う。

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