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戦場ジャーナリストと自己責任

シリアで長年武装勢力の人質になっていたジャーナリスト、安田純平氏が解放されたというニュースを受けて、日本のマスメディアでは様々な論評が出ているようだ。個人的には、毎日新聞の記事「<安田さん解放>『自己責任論』に海外経験者ら反論投稿」に違和感を感じた。

というのも、記事に「識者は『海外では唱えられることのない自己責任論が蔓延している状況を懸念」とあるのだが、拘束された戦場ジャーナリストに対し、自己責任の観点から批判が浴びせられることは海外でも決して珍しくないと思われるからである。ついでに言えば、この記事に出てくる人々は別にそんなこと言ってないような…。

例えば、アフガニスタン紛争では多くの欧米ジャーナリストが拉致、拘束されたが、2009年9月には、ニューヨーク・タイムズ紙に所属するイギリス人ジャーナリスト、スティーヴン・ファレルがタリバーン兵士に拘束されるという事件があった。4日後、イギリス軍の空挺部隊がタリバーンの隠れ家を急襲し、ファレル自身は救出されたが、戦闘では彼の通訳、アフガン人の女性と子供、タリバーン兵士らに加え、イギリス軍の兵士も犠牲となった。

ファレルの一行は、そもそもタリバーンの強固な拠点であり、NATOに爆撃されて多数の民間人死傷者が出た直後で殺気立っているアフガニスタン・クンドゥズの近郊に入り、そこでタリバーンに捕まったのだが、テレグラフ紙の記事によれば、アフガンの警察や情報機関には繰り返し危険を警告され、さらには取材した現地の長老にもタリバーンが近づいているから早く逃げろと言われたにも関わらず、現地に留まって拘束されたのだという。

後日、ニューヨーク・タイムズはファレルの件の検証記事を発表したが、その中でタイムズ自身がファレルへの様々な批判を紹介している。例えばデイリー・メイル紙は、「ジャーナリストの栄光への欲望と高すぎるリスク」と題してファレルを批判する記事を掲載した。読者からも、「ジャーナリスト一人を救うのに何という浪費か」、あるいは「世界の危険で不便な場所からの報道はもっとあってしかるべきだが、しかし拘束されたジャーナリストが最も賢明なやり方をとっていたといえるのだろうか?」などという疑問が呈されたという。また、前掲のテレグラフ紙の記事ではイギリス軍高官の話として、「ファレルが受けた警告の数を考えると、この男を救助する価値があったのか、救助で若いイギリス軍兵士が死ぬ価値があったのかと考え込んでしまう。今後似たような事例があった場合、特殊部隊の投入には再考の余地があるかもしれない」と報じている。また別のイギリス軍情報筋は、「このリポーターはアフガン警察の助言を無視してこのエリアに入った。ありがとうスティーヴン・ファレル、お前の無責任な行動のせいで我々の兵士が一人死んだのだ」と吐き捨てたという。

私は、(戦場)ジャーナリズムの意義を高く評価している。また、自国民保護はどのようなケースであっても国の責務だと考える。当時の英外相デイヴィッド・ミリバンドにしても、ファレルが度重なる警告を無視したのは遺憾としつつ、救出作戦を行ったこと自体は特に問題視していない。しかし、危険と分かっている地域に踏み込んで、それで無事に帰ってきたなら良いけれども、失敗して拘束され、他人に迷惑をかけた場合は、少なくともいくばくかの自己責任はあるだろうし、批判も甘んじて受けざるを得ないと思うのである。

ちなみに、テレグラフはおそらくイギリス政府からの情報を基に記事を書いているが、ニューヨーク・タイムズの記事では、途中のアフガン警察の検問でも止められなかったし、警告もされず、アフガン人スタッフも大丈夫だと判断したと述べており、食い違いがある。現地人とのやりとりを担っていた通訳が死んでしまったので、真相は藪の中なのだが。

安田氏が生還したこと自体は非常に喜ばしい。しかし、それと安田氏の取材計画に問題が無かったかは話が別で、今後慎重に問われるべきだろう。いずれにせよ、ファレルの例を見ても分かるように、戦場ジャーナリストの自己責任を問うべきではないなどというのは、洋の内外を問わず常識とは言えないと思う。

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