米国で「贅沢品としての信念」(luxury beliefs)という概念が話題になっている。元は2019年ごろにちょっと話題になったらしいのだが、私は見逃していた。それが提唱者のロブ・ヘンダーソンが最近自伝「Troubled」を出したこともあって見直され、昨今のいわゆるウォーキズム(日本の文脈に合わせると意識高い系とでも訳すべきか)へのカウンターとして持ち出されているようだ。
ヘンダーソンの顔を見ると分かると思うが、ヘンダーソンという欧米系の姓の印象に反して、彼はアジア系米国人である。彼の母親は韓国からカリフォルニアに渡り、大学を中退して薬物中毒者となった。父親がはっきりしない子供が何人も生まれ、そのうちの一人がロブだった。母親には子供を育てる能力も意欲もなく(その後逮捕され韓国に強制送還されている)、間もなく養子に出されたので、姓がヘンダーソンなのである。しかも養親も離婚してしまい、養母はレズビアンとなって別の女性と暮らすが、その女性が発砲事故で大けがをしたことで困窮に陥ってしまう。
不安定な家庭環境でネグレクトされ続けたヘンダーソンも、子供の頃から酒を飲んだり大麻を吸ったりとすさんだ生活を送っていたが、ある事件があって突如改心し、17歳でまずは米空軍に入る。その後いわゆるGIビル(退役軍人支援法)の恩恵でイェール大学に入学したのだが、イェールのような米国名門大の学生は基本的に金持ちの子供ばかりなわけで、彼らの言行を遠くから眺めていたヘンダーソンはいろいろ思うところがあったようだ。その後も苦学力行を続けてケンブリッジ大学の大学院に進み、心理学の博士号まで取得する。
ようするにヘンダーソンは、しばらく前に同じような出自で話題となった(そして今や上院議員にまでなってしまった)J.D.ヴァンスと同じで、貧しく悲惨な境遇から自分の努力で身を起こした立志伝中の人なのである。
その彼が言い出した「贅沢品としての信念」とは、彼によれば
「上流階級はそれを主張することでほとんどコストを負うことなくステータスを得られるが、下層階級はそれによってしばしば犠牲を強いられる、そうした考えや意見」
だという。
そもそも2019年の論考で言及していたが、ヘンダーソンが下敷きにしているのは経済学者ソースティン・ヴェブレンの「有閑階級の理論」である。ヴェブレンは有閑階級、すなわち上流階級の消費とは、衣装も娯楽も高等教育も、ようは自分がいかに豊かかを誇示するための他者への見せびらかし手段に過ぎないと喝破した。いわゆる顕示的消費である。
それと同じように、自分がエリートであるということを見せびらかすための信念があり、 しかしそれがもたらす被害は主に貧乏人が被る 、というのがヘンダーソンの主張だ。なので、luxury beliefsは「贅沢信仰」ではなく、「贅沢品としての信念」と訳してみた。ラグジュアリーとしての大義名分、くらいのほうが雰囲気が出るかもしれない。
ラグジュアリーと言えば、最近では日本でも誰もがルイ・ヴィトンを持っているくらいで、ちょっとしたブランドものを持っているくらいでは大きな顔はできないし、むしろ下品だとみなされる。モノでは自分の豊かさを誇示するのが難しくなっているのである。そこで、信念や政治的主張で差を付けようということになるわけだが、ヘンダーソンが挙げている「贅沢品としての信念」の具体例としては、
- 警察は廃止すべきである(ディファンド・ザ・ポリス)。
- 国境を開放し移民を入れるべきである。
- 宗教は有害である。
- 離婚やポリアモリーは個人の自由で問題ない。
- 白人は白人であることで、非白人にはない特権を享受している。
- トランスジェンダーは保護されるべきである。
- 薬物は合法化されるべきである。
- 人生における成功は、努力よりも偶然によるところが大きい。
といったものが挙げられる。ようするに最近の米国左派で流行っている、プログレッシブな思想だ。
ヘンダーソンによれば、この種の「贅沢品」をありがたがることで上流階級は、金持ちの世界で尊敬や社会的地位を得られる。しかし、こうした信念が実際に実行に移されたとして、それが引き起こすネガティヴな帰結は、上流階級には影響しない。悪影響は主に下層階級が負うのである。
例えば警察の廃止で一番苦しむのは警備員付き豪邸に暮らす上流階級ではなく、ギャングに牛耳られた犯罪多発地域で暮らさざるを得ない貧困層であろう。移民の導入も、自身が高学歴の上流階級は安い労働力が使えて便利だろうが、実際に非熟練労働者として移民と仕事の奪い合いをするのは貧乏人である。トランスジェンダーの問題も、影響を受けるのが生物学的女性であるという点で似た構図だ。
宗教は時代遅れ、離婚もOK、薬物もOKというが、家庭が壊れたときでも(少なくとも金銭的には)生活を維持できる金持ちと違い、貧乏人はすぐ路頭に迷ってしまう(ヘンダーソンの母親たちがそうだったように)。上流階級にとって薬物はレクリエーションで、依存に陥っても高級療養施設に入るくらいだろうが、貧乏人が麻薬にはまれば低学歴、貧困、刑務所と死へ一直線だ。すなわち、自分は社会問題に鋭敏なセンスを持っていると仲間に自慢したい上流階級の偽善によって、下層階級が困るという構図なわけである。
一応指摘しておくと、ヘンダーソンの主張はキャッチーだが、あまりしっかりした根拠はない。そもそも、考え無しに流行りの思想に飛びつくのは別に上流階級に限らないし、ピーター・ティールのように右派の金持ちはいくらでもいる(むしろ最近では多数派かもしれない)。だから、プログレッシブなことを言わなければ絶対にステータスが上がらないというわけではない。また、そもそもリベラルっぽいことを口にするから必ず社会的評価が上がるというものでもない。具体的にこう警察を改革するというのなら分かるが、大真面目に警察を廃止しろという金持ちがいれば、仲間内にもただバカにされるだけだろう。薬物に限らず、自由を享受するには(自制心も含めた)能力がいる、というのは確かだが、だからといって自由のほうを狭めるというのも妙な話だ。だからこれは、結局は右派ウケするプロパガンダなのである。
とはいえ個人的に思うのは、ようやく米国の右派が、左派と勝負できるだけのナラティヴを手に入れつつあるのだな、ということだ。レーガン以降の右派は、右派の外へリーチし、アピールするような言説をうまく構築できなかった。今さら神を崇めよと言ったところで時代錯誤のそしりは免れないし、小さな政府、反共、自由競争といったお題目の輝きも冷戦後はだんだん色褪せた。いわゆるMAGAもドナルド・トランプという個人のカリスマに多くを負っていて、そう長続きするとは思えない。おそらく「贅沢な信念」のような焼き直しの社会保守主義が、今後そのニッチを埋めるのだろう。
個人的には別に上流階級というわけでもないのだが、この種の考えにはいまいち乗れない。というのも、私は「贅沢な信念」と似たようなことを言っていた人物を一人知っているからだ。思うにこの種の議論は、結局 エリートの 自己正当化に使われるのである。
1974年、ルター派教会のヘルムート・フレンツ監督と、カトリックのエンリケ・アルベアール司教がピノチェトに面会し、「肉体的圧力(ピノチェトを憚って「拷問」の用語を避けた)」を止めるよう申し入れた。ピノチェトは自ら「拷問のことかね?」と返し、「あんた方(聖職者)は、哀れみ深く情け深いという贅沢を自分に許すことができる。しかし、私は軍人だ。国家元首として、チリ国民全体に責任を負っている。共産主義の疫病が国民の中に入り込んだのだ。だから、私は共産主義を根絶しなければならない。(中略)彼らは拷問にかけられなければならない。そうしない限り、彼らは自白しない。解ってもらえるかな。拷問は共産主義を根絶するために必要なのだ。祖国の幸福のために必要なのだ。」(アウグスト・ピノチェト)