My Human Gets Me Blues

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2008-01-08 [長年日記]

_ [Shogi] 森下卓の復活

将棋世界 2008年 02月号 [雑誌]

生まれて初めて『将棋世界』を買った。これは相当ディープな将棋ファンのみが買う専門雑誌であって、Amazonでは買えるけれど普通の本屋には置いていないくらいである。そんなものをなぜトーシロの私が買ったかと言うと、先日触れた真部一男の追悼特集が載っていると聞いたからだ。正直、亡くなったからと言って大々的に特集を組むほど実績があった人ではないと思うのだが、それでも真部という存在には、皆何かしら引っかかるものがあるのでしょう。

で、お目当ての真部追悼はなかなか読み応えがあったし、他にもへえ櫛田ってこんな風体になったんだとか、先崎の対局日誌もどきは思ったより悪くないねとか、藤井の連載のマクラが本題と全然関係無さ過ぎて笑えるとか(ちょっと調べてみたらいつも関係無いのようだ)、羽生に必勝の最終盤からとんでもない大逆転負けを喫し、それが不運にもNHK杯トーナメントだったので一部始終をテレビ放送された(おまけに解説が加藤一二三大先生)ためネット上でも話題になった中川が可哀想に自戦記を書くはめになっているだとか、全体になかなかおもしろかったのだが、そんな中で驚かされたのが、今年のJT杯将棋日本シリーズの記事だった。あの森下が優勝したのか。というか、そもそも出場できたのか。

たぶんこの日記の読者には将棋界に馴染みの薄い方も多いだろうから、ちょっとだけ背景に触れておくと、将棋の棋士で森下卓という人がいる。羽生、森内佐藤といった、一般人にも知名度の高いいわゆる「羽生世代」よりも若干年上の強豪だ。

強豪も何も、私が将棋に関心を持っていた十数年前には、明らかに森下は棋界最強、あるいは少なくとも棋界最強を争う一人だった。駒が手厚くスクラムを組んで迫ってくるような重量感に富む森下流の重厚な将棋は、個人的にはあまり好みでは無かったけれど、とにかく堅実無比で強かったという印象がある。理論面でも「森下システム」を創案し、「矢倉」という将棋の基本とも言うべき戦法に新境地を拓いた。斬新なものをゼロから生み出すのはもちろん大した才能だ。しかし、本当に困難なのは、実はすでにポピュラーなものに新しい何かを付け加えるということではあるまいか。それを森下はやってのけた。

そんなわけで実力は高く評価されていた森下だったが、ただこの人は、どうしてもタイトルを取ったり、トーナメントで優勝することが出来なかった。挑戦者にはしょっちゅうなるし、あるいは準決勝までは行くのだが、大体そこで負けてしまう。羽生が初めて名人となった翌年、名人挑戦者になったのは森下だったが、あっさり1勝4敗で敗退してしまった。この時も含め、タイトル挑戦失敗は実に6回を数える。そもそも6回もタイトルに挑戦するだけの力量があれば、普通1回くらいは何か奪っているものである。それがどうしても森下には出来なかった。

私がリアルタイムで見ていた森下の記憶はここで終わる。その後私が将棋に関心を失っていたここ十数年というもの、森下は羽生世代、あるいは渡辺竜王あたりを筆頭とするもっと若い世代の活躍に押される形で、だんだんと影が薄くなっていったようだ。タイトル挑戦は夢のまた夢、数年前には棋界トップ10のA級からも落ち、最近ではまあ良いとこ一流半くらいのところにランクされていたと思う。先ほどJT杯に出場していたこと自体に驚いたのは、このトーナメントは出場者がタイトルホルダーと賞金獲得ランク上位か何かから選ばれる選抜制で、今となって森下がそういうものへの出場資格を満たしていること自体がかなり意外だったからである。実際、出場者の中ではかなりの下位で、滑り込み参加という感じだったようだ。そういう明らかに盛りを過ぎた40過ぎの万年準優勝男が、木村、渡辺、佐藤、そして決勝で現名人の森内と、20代から30代で脂の乗った現在の棋界の中軸を撫で斬りにして優勝したわけだから、しびれるものがあるわけです。まあ、苦手中の苦手である羽生をあらかじめ森内がやっつけておいてくれた、という幸運もあったわけだが。

それはそうと森下の世間的なイメージは、当時も今も律儀な善人、真面目な努力家、早朝から深夜までコツコツ勉強、という感じで、人間的な面白みは薄かった。なのでおそらく今回の優勝のコメントもさぞ優等生的でつまらんことを言っているのだろうなあと思ったら、そうでもなかったのである。

23、24歳のころは、自分が一番強いと確信していました。誰よりも努力している自負もありました。だから優勝しても当然という意識でした。

完璧に指して、完璧に勝つ−−当時はこのように考えて将棋に取り組んでいました。最新型の角換わりの将棋でもトコトン研究し、盤上でもトコトン考え抜いていました。このころの私は『勝負術』という言葉が嫌いでした。勝負術なんて邪道で、完璧に勝てない人のうわごとだと卑下していました。

しかしですね…このやり方は正直言ってツライんです。若くて体力が会って気力も充実しているときはできるけれど、とても続けられません。26歳ごろからその反動というか、たるみが出ました。生きていくなかで、『ぜい肉』や『ガラクタ』が身体中にまとわりついてきたんです。こんなことではイカンと思うのだけれど、気持ちがついていきませんでした。

若いころ、生涯1500勝するのを目標に掲げ、公言もしていました。これは大山先生の通算勝利数1433勝を意識したものです。抜かなければいけないという義務感もありました。しかしこの数字も口先だけで、ただの念仏と化していました。

優勝からもすっかり遠ざかったのに、焦りはなかったですね。焦りは一生懸命やっている人間が感じるものです。緩み出してからは、小手先というか、ただ惰性でこなしているだけなんですよ。ダメと分かりつつ指したら、やっぱりダメだったという感じで。自分で自分が嫌になるほどでした。

だからA級を陥落したとき(第61期・36歳)も、正直言って痛みを感じなかったんですよ。むしろよくここまで落ちなかったなと思うぐらいでした。

今年3月、腹膜炎で手術をしました。もう一歩送れていたら危なかった、と医者に言われるほどの容態でした。40歳を過ぎ、大病も患い、棋士としてこのまま終わるのはツライな、と思うようになりました。というか、死に直面するまで変われなかったんですね。

これからは、もう一度原点に帰って盤上一筋で生きたい。プロを目指した30年前の奨励会当時のようにね。やっぱり棋士は『将棋が強くなりたい』という気持ちを失ったら終わりですから。

何というか、この人もそれなりに屈託を抱え込んでいたのだね。「焦りはなかった、焦りは一所懸命やっている人間が感じるもの」というのは、陳腐な表現ではあるけれど、他ならぬこの人に言われると胸を打つものがある。

決勝戦の棋譜を見ると、ただ堅実一方というだけではなくて、それなりの踏み込みの良さも出てきているようだ。長い年月を経て、森下将棋にはぜい肉やガラクタ以外にも何かしら付け加えられたものがあった、ということだろう。年齢的にこれからタイトルをいくつも取るというのは難しいと思うが、できればもう一花咲かしてほしいものである。