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2009-08-17

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Amazonのあれやこれやがありますんで、仕方なく…。

_ [Reading] ニッポンの思想 / 佐々木敦

ニッポンの思想 (講談社現代新書)(佐々木敦)

おもしろい本だった。おすすめする。

佐々木敦というと、個人的には映画や音楽の評論家、あるいは雑誌や音楽レーベルの主催者というイメージが強いのだが、近年は文芸批評やこうした現代思想系の仕事も手がけているらしい。ハイデガーの哲学をうまく腑分けしてみせた文芸評論家ジョージ・スタイナーを筆頭に、下手に「業界」に属していない人のほうがその分野全体をバランス良く俯瞰できるというのはよくあることだが、佐々木もなかなか手際の良いところを見せている。

この新書は「ニッポンの思想」と銘打たれているが、何せカタカナの「ニッポン」なので、本居宣長だの小林秀雄だの丸山真男だの吉本隆明だのといった、いわばオールディーズの「日本の思想」は出てこない。浅田彰や中沢新一、柄谷行人、蓮見重彦といったニューアカ世代から福田和也、宮台真司、大塚英志といったあたりを経て、最終的に東浩紀に至る、1980年代以降の日本のいわゆる「現代思想」が主題だ。

と言っても、実のところ佐々木が力点が置いているのは個々の思想の内容ではなく(もちろんそれぞれに簡潔にして十分な紹介はある)、その思想を主張していた人々が「いかに」「どう」主張し、ふるまったか、というところである。これは別に私独自の解釈ではなく、佐々木自身がそう書いている。

まず最初に、「ニッポンの思想」を概括すると言いながらも、本書では個々の思想の内実、中身にいちいち深く立ち入って、それぞれの「変遷」を論じるということはしません。(中略)そもそも「ニッポンの思想」は「思想」の内容それ自体よりも、もっぱらその「思想」の「振る舞い」によって成立してきたものだ、と考えているからです。(p.18)

本書の冒頭で、佐々木は「ニッポンの思想」の特徴を体現する4つのキーワードを挙げる。そのうち3つに従えば、浅田ら本書の登場人物は、(音楽や芸能と同じ意味での)「パフォーマンス」の「プレイヤー」であり、「思想市場」において(例えば著書の売り上げといった形で)定量的に評価され、比較される存在だった、と総括される。そこでは、彼らの「思想」そのものの内容や意味が問われることはほとんど無い。そんなのは、どうでも良いことだったのだ。

あまつさえ佐々木は、もう1つのキーワードとして「シーソー」を持ってくる。議論というのは本来、肯定側と否定側とですりあわせを行い、より高次での同意を目指すものだ。思想を巡る論争もそうしたものであるはずだが、しかしニッポンの思想には、そうした営みが見られない。極端から極端に流れ、しかしまた元に戻り、何か目新しいこと、気の利いたようなことを言い合っているに過ぎない。そもそも互いに何を言っているのか理解しているかどうかも怪しい(文中でも言及されるソーカル事件が良い例だ)。だから「ニッポンの思想」とは、ただひたすら往復する振り子、あるいはギッコンバッコンと上下はするがどこにも向かわない、シーソーのようなものなのだ、と。

佐々木の筆致にはまるで悪意や敵意のようなものが感じられないのでピンと来ないかもしれないが、佐々木が行っているのは、私に言わせれば「ニッポンの思想」への断罪である。「ニッポンの思想」にはまるで中身がない、ニッポンの「思想」なんてものは実質的に存在しない、あったのは論壇プロレスや思想芸人の類だけ。そう言っているに等しいからだ。ではなぜそのようなものが一時勢いを得たかというと、そういうこじゃれたもの、自分を肯定してくれる(かのような)ご託宣を、先進国入りして大量消費社会、ひいてはバブル経済へと突入しつつあった当時の社会が欲したからである。ようするに、全てはスノッブのおもちゃでしかなかったのだ。当然、社会が欲しなくなった、あるいは欲するだけの経済的余裕を失ったときには、こうしたものは退場せざるを得ない。

「八○年代」には「思想」は「ファッション」でした。しかし「現実=現在」との対峙を余儀なくされた「九○年代」を経て「ゼロ年代」になると、それは「知的意匠=遊戯」であることも「リアルへの方策」であることも、ともに許されなくなってきます。考えてみるまでもなく、これはかなりキツい状況です。そう、それはもはや「ニッポンの思想」それ自体のサヴァイヴァル(生き残り)、いや、「延命」の問題になってきたのです。(p.278)

このような「思想市場」の縮小ないし消滅という事態に向き合い、戦略的に「ニッポンの思想」の「延命」を図ったのが東浩紀である。季刊誌「思想地図」の発刊やイベント「ゼロアカ道場」の開催等、市場=ゲームボードそのものの再構築、いわば市場そのものの創出を図ることによって、東は一定の、おそらくは「一人勝ち」と言っても差し支えない程度の成功を収めた。しかし、その東の試みもそろそろ限界に達しつつあるのではないか、「ニッポンの思想」自体の存在意義は全く無くなったのではないか。そう暗示して、この本はしめくくられる。

ようするに、この本はある意味で恐ろしく意地の悪い本なのである(佐々木の意地が悪いという意味ではない)。でも私は、佐々木の見方は基本的に正しいと思うのだ。

ただ、「ニッポンの思想」が退場して、結局何がその社会的な地位を継いだかというと、どうもそれは、世間的には「知」の象徴とされる(笑うところではありません)茂木健一郎であったり、周回遅れのヴィジョナリーとしての梅田望夫であったり、自己啓発の星としての勝間和代だったような気がしないでもない。彼らの発言のほうが、「ニッポンの思想」よりも現代の日本社会の「需要」に即していた、といえばそれまでの話だが、うーん…。個人的には、本当にいいのかそれで、というような懸念、というより、ある種の脱力感のようなものが否めないのである。

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諸般の事情によりこの際UTF-8化してしまったほうがよろしかろう、ということで、一気に2.3.3にしてしまった。二度手間ですわ。

alps.rb(Revision 34)は住所をEUC-JPで渡されることを期待しているので、UTF-8化してしまうとそのままだと動かない。こちらをどうぞ。

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ついでに出来るようにした。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ 後藤雅洋 [佐々木敦の『ニッポンの思想』、私も読みました。実に面白い。確かに「思想プロパー」にないクールなところがありますね。八..]

_ 八田真行 [後藤さん、どうも頂いたコメントを見落としていたようで申し訳ありません。読後感が似ていたというのは光栄です。]