前回の続きというか書き忘れていた話。
統計データを駆使した選挙予測で有名になったネイト・シルヴァーは、昨年出版した『On the Edge』という本の中で「River(川)」と「Village(村)」という概念を提示した。これは現代アメリカ社会、ひいては先進国社会を理解する新たな枠組みとして興味深いものである。この2つは、リスクへの態度、思考様式、そして世界観において対照的な特徴を持つコミュニティとして描写されている。なお日本語で読めるもっとちゃんとした書評としてはこれとかこれがあります。
Riverの定義と特徴
彼らの最も特徴的な能力は、シルヴァーによれば「デカップリング(decoupling)」である。これは、ある問題や主張を、その発言者のアイデンティティや歴史的文脈から切り離して、純粋に論理的・分析的に評価するという能力を指す。例としてシルヴァーが挙げるのが、「某サンドイッチ会社のCEOは同性婚に反対しているが、彼らのチキンサンドイッチは本当に美味い」というような発言である(ちなみにシルヴァー自身もゲイである)。政治的立場と製品の品質を別物として扱える思考法だ。それはそれ、これはこれということだろう。なので、デカップリングというよりは、「脱文脈化」とでも言ったほうが良いかもしれない。
川の人々は自由な言論を憲法上の権利としてだけでなく、文化的規範として重視する。これは毀誉褒貶相半ばする人々や概念(例えばデザイナーベビーなど優生学すれすれの遺伝学)を是々非々で支持するという態度にもつながり、元はリベラル支持が多かったテックブロらシリコンバレー人士のトランプ・シフトを説明することができよう。トランプはろくでなしだが、自分たちの役に立つろくでなしだ。なら支持しても良いだろう、と。
River陣営は、逆張り主義(contrarianism)、高いリスク許容度、そして極めて大きな結果の分散(大成功か大失敗)を特徴とする。川の人の代表例であるサム・バンクマン=フリードは、仮想通貨や効果的利他主義の寵児から一転して塀の中にまで転落してしまったくらいだ。
一方、こうした文脈をいわば軽視して判断するという姿勢は、社会的文脈そのものとも言える歴史や法、倫理、近代的価値観をも疑う姿勢となり、人文学や(経済学を除く)社会科学の軽視につながる。テックブロの話でも触れたが、人間性などを前提とせず、ようするにハード(に見える)なエビデンスしか重視しないという、よくも悪くも全ては許されている(All is forgiven)という立場だろう。だから反ポリコレでもある。そういえば、テックブロが妙に好きな映画で『127時間』というのがあるが、あれも、文脈を無視して最適な行動(助かるために自ら腕を切り落とす)が取れる俺カッコイイということなんでしょうかね。
ところで、なぜ「River」と呼ぶのだろうか。この名称は、19世紀アメリカの「riverboat gamblers(川船のギャンブラー)」に由来する。ミシシッピ川などを航行する蒸気船で賭博を行っていた人々のイメージである。川は常に流れ、変化し続ける。それはRiverコミュニティの流動性、リスクテイキング、そして不確実性への親和性を象徴している。ポーカーの代表的なルールであるテキサス・ホールデムで5枚目、つまり最後に開かれる「リバー」カードへのオマージュでもある。
Villageの定義と特徴
村の人々の特徴は、Riverとは対照的に、文脈を重視する点にある。発言者のアイデンティティ、歴史的背景、社会的文脈を考慮して物事を判断する。リスク回避的で、結果の平等を重視し、規制と政府の役割を肯定的に捉える。一方で日和見主義的、順応主義的であり、近年では党派性が強まり、確証バイアスや集団浅慮の影響を受けやすいとシルヴァーは批判する。有能だが倫理的に芳しくない人物を「キャンセル」するというのは村の人に特有なカルチャーということであろう。
両者の強みと弱み
一方で、Riverな人々はモラルなき拝金主義や極端な個人主義に陥りやすい。自らの特権に盲目で、既存の社会階層から利益を得ながらそれを認識していないことがある。また、バブルの中に住み、自らの行動の社会的帰結から隔絶されているという批判もある。かつては大学が「象牙の塔」と言われたものだが、最近ではシリコンバレーのキャンパスのほうが、世間知らずの象徴としては適切かもしれない。自分の消滅である死を恐れて不老不死を求め若者の血を買いあさったり、孤独にさいなまれてソーシャルメディア中毒になったりというのは、おそらくRiver特有の病理なのだろう。
一方Villageの強みは組織力である。よって組織力が必要な選挙での勝利能力が高い。専門知識を有し、社会的公平性や環境問題、人権といった重要課題に取り組む。多様性を重視し、歴史的不正義を是正しようとする姿勢がある。ある意味これらは社会が作り上げた規範、つまりフィクションなわけだが、それを維持しようとする力は馬鹿にできない。
一方で、Villageは不確実性への不快感から、思い込みや独善が激しい。党派性の強まりにより、客観的分析よりも「そうあるべきだ」というイデオロギーが優先される傾向がある。行動科学や生物学といった客観的条件よりも、規範的な判断が先に立つのだ。トランプを見くびった2016年選挙予測の失敗などは、Villageの限界を示した例として挙げられる。
日本へのインプリケーション
とはいえ、ではRiverがそこまでいいのかというと、タレブの言う伝統的なブラックスワンがそのまま当てはまる気はする。予測に織り込みにくいことは無視してしまいがちなのである。シルヴァーも認めるように、当たるとでかいのだが外れるのもでかいのだ。それに一般人が道連れにされるというのはやはり理不尽ではなかろうか。
私が思い出すのはイギリスの評論家チェスタトンだ。彼の言葉に、「狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである。実際、この意味では狂人のことを理性を失った人というのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。理性以外のあらゆるものを失った人である」というのがあるが、正直Riverによくあてはまる。
どのあたりでバランスを取るか、というのが今後は問われることになるだろう。じつのところ私などはどう考えてもRiverに親和性が高いのだが(バクチも好きだし)、なぜかVillage的な言説に親しみがあり、徹底していないと反省しきりである。