コンテンツへスキップ
ホーム » テックブロ的思考についてのメモ

テックブロ的思考についてのメモ

はじめに

生成AIやソーシャルメディアをはじめとする情報技術の社会への影響が極めて大きくなってきたので、その担い手であるいわゆる「テックブロ」(tech bro、テック野郎どもとでも訳すべきか)の言行が注目されるようになってきた。イーロン・マスクを筆頭に、ピーター・ティール、アレックス・カープ、パーマー・ラッキー、マーク・アンドリーセンといった面々の発言や書き物が大きく取りあげられることがある。

最近では、おそらく彼らに批判的な人のほうが多いだろう。剥き出しの傲慢には私も鼻白むことがある。私自身は彼らを全面的には支持しないし、そもそも連中ほど金持ちではないし権力もないのだが、彼らの気持ちはなんとなく分からなくもないのである。それは、この20年くらい、ITの発展を見物してきた人間には共有する感覚のようにも思う。

ということで、連中の思想のようなものを大ざっぱにくくって、「テックブロ的思考」と呼んでみることにした。もちろん人によって微妙に意見は違う。一応彼らの書き物や発言に即したつもりだが、あくまで私ができるだけ辻褄が合うように整理し直して解釈したということなので、文責はすべて私にある。

収穫逓増と収穫逓減

おそらく、すべての出発点はこんな世界観ではないかと思う。

横軸に経過時間、縦軸に経済や技術の成長をとったグラフを思い浮かべてほしい。二つの曲線がある。一つは緩やかに伸びていくが次第に頭打ちになる青い曲線(収穫逓減)、もう一つは最初は緩やかだが次第に加速度的に伸びていく赤い曲線(収穫逓増)だ。前者はしばらく後者を上回るが、そのうち後者が追い抜いて、時間が経てば経つほど引き離していく。「逓」は「次第に」という意味である。

経済学では、逓減曲線は資源の枯渇や市場の飽和など様々な要因で説明される。しかしテックブロは、この成長率の低下を主として無意味な規制の蓄積によるものと解釈する。規制が重なるたびに企業ひいては国家は身動きが取りにくくなり、ロケットスタートを切ったとしてもやがて失速してしまう、というわけだ。

問答無用のイノベーション

この種の考え方はそれほど目新しいものではない。アダム・ティエラーは2014年の著書『Permissionless Innovation』において、事前規制がいかにイノベーションを阻害するか、許可なきイノベーションがいかにテクノロジーの可能性を開放するかについて論じた。新しい機器やサービスを開発・展開する前に誰かの許可を得なければならないとすると、イノベーターは委縮してしまう。もちろん、社会に害を為すようなものを素通しして良いのかという意見もあるだろう。しかし、そもそも事後的にきちんと責任を問われるなら、企業は事前に十分な予防策を講じるはずだ。

「こんなことがあったらどうするんだ」という懸念の多くは、実際には過大評価された想像上のリスクに過ぎない。俗に「石橋を叩いて壊す」というが、過剰な慎重さはかえって機会を逃すことになる。しかも、リスクを解決する能力ではなく、リスクを思いつく能力に長けた人々が決定権を握っていることが多いのである。

ティエラーは、「予防原則」が「許可なきイノベーション」を凌駕するならば、その結果、サービスの低下、低品質の商品、物価の上昇、経済成長の低下、全体的な生活水準の低下が起こると論じている。「許可なきイノベーション」こそが、近年のインターネットや現代のハイテク経済の成功に拍車をかけてきたと主張するのである。

政治をハックする

こうした、妙な法規制がイノベーションを阻害し、ひいては自分たちを弾圧しているという感覚は、おそらく1980年代から2000年代初頭にかけて醸成されたものだ。現在40代から50代くらいの年長のテックブロの多くはこうした時代に育った。そうした雰囲気を今に伝えるのが、2013年刊行の『Hacking Politics』である。このアンソロジーでは、今では呉越同舟とも言えるオタク、進歩主義者、ティーパーティ人士、ゲーマー、アナーキスト、そしてスーツを着る弁護士たちが、いかにして当時問題となったインターネット規制法のSOPA(Stop Online Piracy Act)を破り、ネットを救うために手を組んだかが描かれている。

実際、「わかってない」政治家や役人への敵意は長年かけて醸成されてきた。私自身も、正直に言えば(例えば表現規制や暗号通信規制などの文脈で)どう考えても無意味で市民の自由を損なうような規制をやろうとする政府に腹を立てることもある。この種の議論は、知的財産権(著作権やソフトウェア特許)の問題でもくすぶりつづけてきた。ボルドリン&レヴィンの『反知的独占』などもそうだ。全体に、経済学は規制を好まないのである。そういう意味でこうした気分は、おそらく思った以上に幅広く多くの人間に共有されていると思う。テックブロたちの苛立ちには、一定の正当性がある。

歴史の教訓――ソ連、日本、そして中国

こうした見方を、テックブロたちは歴史的なスケールにも当てはめる。第二次世界大戦後に世界の盟主となった米国に挑戦したのは1960年代の旧ソ連と1980年代の日本だった。旧ソ連は軍事で、日本は経済で一時は米国に肉薄し、もしかすると上回ったこともあったかもしれない。しかしどちらもやがて失速した。テックブロたちはこれを、硬直した制度や官僚制による成長の阻害によるものと解釈する。そして今、第三の挑戦者として中国が浮上している。中国はソ連とも日本とも異なり、経済と軍事の両面で米国に肉薄しつつある。世界の工場として製造業を席巻し、AIやEV、通信などの先端技術でも急速に追い上げている。軍事面でも、海軍力の増強や新兵器の開発など、米国の優位を脅かす動きを見せている。

ダン・ワンの『Breakneck』(2025年)は、この対立を興味深い角度から分析している(yomoyomoさんの紹介)。ワンによれば、中国は「エンジニア国家」であり、問題に対して物理的にも社会的にも工学的発想で臨む。対照的に今の米国は「弁護士国家」であり、良いことも悪いことも含めてあらゆることを法律で阻止する。中国の指導者の多くは工学系の学位を持っている。胡錦濤は水力エンジニアで、温家宝は地質学を専攻した。米国でも、かつてはフーヴァーダムで知られるフーヴァー大統領のように工学出身の指導者がいたが、1980年から2024年まで、大統領候補はほぼ全員がロースクール出身だったのである。

テックブロたちにとって、この対比は深刻な警告である。弁護士は遵法性やリスク回避を重視するが、成長に責任を持たない。エンジニアは素早く大規模に物事を進め、進んでリスクを取る。ゆえに、このまま規制でがんじがらめにしていては、中国に追い抜かれるという恐怖があるのである。

効果的利他主義から効果的加速主義へ

テックブロの思想を理解するには、まず「効果的利他主義」(effective altruism、EA)について知っておく必要がある。EAは、限られた資源でいかに最大の善を為すかを合理的に考える運動だ。その関心事の一つに、人類への存在論的脅威(existential risk)の回避がある。暴走したAIが人類を絶滅させるかもしれない、だから慎重に開発すべきだ、というのがその一例である。2022年頃から、シリコンバレーではこれへの反動として「効果的加速主義」(effective accelerationism、略してe/acc)と呼ばれる運動が台頭してきた。これは明示的に技術擁護の立場をとる21世紀のイデオロギー運動であり、支持者たちは制約のない技術進歩(特にAIによる)が貧困、戦争、気候変動といった人類普遍の問題への解決策だと信じている。e/accの支持者たちは、規制や慎重な開発はただ進歩を遅らせるだけであり、安全を唱える人々は公衆に過度の恐怖を煽っていると考える。先ほどの収穫逓増のグラフを思い出してほしい。加速する曲線と減速する曲線の差はどんどん開いていく。ということは、社会問題の解決に使える資源も、いったん加速の軌道に乗ればどんどん増えるということだ。規制でがんじがらめにして慎重にやっても、足りない中でやりくりをしなければならない。ちまちまやるより、成長曲線を早く軌道に乗せるほうがはるかに重要なのである――これがe/accの論理だ。

テクノ楽観主義宣言

2023年10月、マーク・アンドリーセンは「Techno-Optimist Manifesto」を発表した。アンドリーセンは「社会はサメのように成長するか死ぬか」であり、「成長こそが進歩」であると主張する。このマニフェストでは、「社会的責任」「信頼と安全対策」「持続可能性」「テック倫理」といったものがテクノ楽観主義の「敵」として名指しされている。興味深いのは、このマニフェストがイタリア未来派のマリネッティによる「未来派宣言」(1909年)を下敷きにしていることである。マリネッティの未来派宣言は速度、機械、産業、暴力、男性的な強さへの賛歌だった。そしてマリネッティは後にファシズムと結びつき、ムッソリーニの支持者となった。アンドリーセンがこの系譜をどこまで意識していたのかは定かではない。

テックブロの道徳観

私の解釈では、結局のところこうした話の背景にある情念は、「自分たちの外で作られた社会規範を認めない」ということではないかと思う。例えばポリコレ的な規範は、誰かが勝手に決めて真理だと言っているに過ぎない。 それは我々の真理ではない。 逆に言えば、真理があるのではなく、真だという確信があるだけということだ。そして、自己保存や成長に役立つものが我々にとって真なのである。「In math we trust」(本当はgod)というジョークがあるが、数学や科学、物理学や生物学は否定しようがない「たしかな」規範である。金やフォロワー数も否定できない数である。モテないよりはモテるほうがよい。むしろそういったものを否定するのはルサンチマン的な価値の顛倒だということなのだろう。「強いものは強い」のだ。何かを実際に作り出すビルダーの称揚と、口ばかりで規制ばかりで何も生み出さない人々への軽蔑はその一帰結である。このあたりで、ジョーダン・ピーターソンのようないわゆる文化的マルクス主義批判や、セルフヘルプ的自己啓発の文脈、あるいはいわゆるマノスフィアやピックアップ・アーティストのような反フェミニズムともつながってくる。

善意という名の敵

最近ピーター・ティールはサンフランシスコのコモンウェルス・クラブで講演を行い、グレタ・トゥーンベリを「反キリストの軍団」と呼んで話題になった。ティールはこう述べた。「17世紀、18世紀には、反キリストはドクター・ストレンジラブのような、あらゆる邪悪で狂った科学を行う科学者だっただろう。21世紀において、反キリストとはすべての科学を止めようとするラッダイトである。グレタやエリエザー(AI批判者のエリエザー・ユドコウスキー)のような人物だ。」これは、ようするに「成長を阻害する者は善意のかたちをとって現れる」ということだ。規制を主張するグレタさんが(おそらく)善意の人であることは否定できない。しかしそれによって成長率が逓減してしまえば、宇宙に植民はできないし、いつまで経っても人間は地球という檻のなかである。地球は有限の資源であり、支えられる人口には限界がある。すでに80億人を超えた総人口は、維持が難しくなりつつある。とすると、宇宙への生存圏の拡張ができなければ、地球の中で「間引き」をすることになろう。それは戦争や虐殺といったかたちになり、人類の滅亡にもつながる。だからこそ技術による成長が必要であり、それを阻害する者は(たとえ善意であっても)危険だというのがティールの論理である。

AIと超人

AIは限りない成長の鍵となる。人間を超えたトランスヒューマンだからだ。AGI(汎用人工知能)ならなおさらだ。不老不死への道もAIが開くかもしれない。ティール、マスク、アンドリーセンらは「超知性的な億万長者」として喧伝され、「デジタルノマド時代のニーチェ的超人のようなもの」、すなわち「自ら課した凡庸さと奴隷道徳から人類を引き上げようと努力する存在」として描かれている。そのように自己を演出したい、という欲望が透けて見える。実際、彼らの言説にはニーチェの影響が色濃い。こうした思想的背景には、メンシウス・モールドバグことカーティス・ヤーヴィンに代表される「新反動主義」(neoreaction、NRx)の影響もあるだろう。ヤーヴィンは民主主義を非効率なシステムとして批判し、CEOのような権限を持つ統治者による政治体制を提唱した。ティールはヤーヴィンの思想に共感を示しており、テックブロ的感覚の一部はこの系譜に連なるものである。このあたりは昔書いた「新反動主義のおもしろさ」を参照。

テックブロの夢と限界

ようするに、テックブロの夢は、技術によって地球という檻、人体という檻、リベラル的な道徳という檻から解き放たれる、というストーリーなのである。問題は、その苛立ちが「規制はすべて悪」「成長がすべてに優先する」という極端な立場に結晶化してしまうことだ。規制と自由、成長と持続可能性、効率と民主主義のあいだには、つねに緊張関係がある。その緊張を引き受けながら、具体的な文脈で判断していくほかないのではないか。テックブロ的思考を理解することは、その緊張を考えるための出発点にはなる。しかし、そこに留まることはできないのである。
タグ:

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください