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科学や学問の「ありがたみ」

person holding laboratory flasks

日本学術会議と日本学士院は同じものだと思っていた程度の情弱なので、全く偉そうなことは言えないのだが、昨今の騒動も含め私が眺めている限りでは、科学や学問全般、あるいは知的エリートというようなものに対し(少なくとも潜在的に)反感を抱く層が、一昔前に比べ明らかに増えているように思われる。この風潮は、日本だけではなくアメリカやヨーロッパでも見られる傾向のように思えて興味深い。

現時点での私のあまり根拠のない説は、おそらく科学や学問、知的エリートなどの「分かりやすいありがたみ」のようなものが、近年見えにくくなったからではないか、というものである。

学者になるような人は、元々科学や学問が好きだからなるわけで、その分野の価値を疑うということはあまりないだろう。しかし一般の人にとっては、科学や学問そのものの価値というのは分かりようがないのではないか。これは別に科学等に限った話ではなく、例えば最近の話で言えば、将棋を自分で指す人はあまりいないと思うが、藤井君が29連勝した、最年少でタイトルを獲った、とかいうと大いに注目が集まるし、将棋を知らなくても、将棋には価値がある、と思う人が増えるわけです。

大昔は、科学の進歩は分かりやすい応用と主に訪れ、それは私たちの生活をダイレクトに変えていた。自動車しかり、ペニシリンしかりである。内燃機関の原理や抗生物質の機序を知らなくても、かつては到底行けなかったような遠くへ日帰りで行けるようになり、かつては手の施しようもなくばたばた死んでいた伝染病が治るようになったのは誰の目にも明らかだった。洗濯機やクーラーもそうだし、原発ですらそうだった。ここまで分かりやすい成果が連発されていれば、それらをもたらした科学や学問の価値を否定することは難しい。日本に固有の文脈としては、やはりB29や原爆のインパクトは大きかったのではないか。科学が劣っているから日本は戦争に負けた、とみんな思ったのだ。この情念こそが、産業界も含めてある時期までの日本の研究開発を駆動していたように思えてならない。今は、そこまで科学の価値を確信している人のほうが少ないだろう。

そもそも、近年発達した行動経済学が教えるのは、およそ人間というものは生物学的に知的怠惰であって、感情的な意思決定や確証バイアス、その他批判的思考を妨げるありとあらゆる衝動を持ち合わせている、あまり合理的ではない生き物ということだ。人間はそもそも科学やらファクトやらと相性がよくないのである。

そう考えると、科学や学問への反感はたぶん有史以来ずっとあったのだが(ある時期までそれは宗教に回収されていたようにも見える)、科学の社会的応用の圧倒的な力によってねじ伏せられてきたのである。ところがここ20年くらいだろうか、そうした誰の目にも分かりやすい「科学の進歩」が少なくなってきたように見える。最後のそうした「発明」はスマホだろうか。しかしスマホが生まれてからすでに20年、スティーヴ・ジョブズが意気揚々と初代iPhoneを発表してからも13年経っているのである。AIは確かに近年急速に発展したがそこまで身近ではないし、自動運転車もドローンも、我々の生活を大きく変え、目に見えて向上させるというところまではいっていない。こうなると押さえ込まれていた反感がまたくすぶり始めるわけで、だとすれば、科学や学問がポピュリスト政治家の手軽な人気取り用カカシになるのは必然のようにも思える。

経済学者のタイラー・コーエンが2011年に書いた「大停滞」も、若干文脈は違うが似たような話を取り上げていた。先進国では経済成長のエンジンとなる「容易に収穫できる果実」が食べ尽されたため、経済が停滞している。「容易に収穫できる果実」とは具体的には、豊富な資源のある無償の土地と、能力はあるのにこれまで教育を受けられなかった子供、そしてイノベーションだが、先進国では前者2つが枯渇しつつあるので、経済成長を維持するにはイノベーションが必要となる。ところがこのイノベーションも停滞しつつあり、数少ないイノベーションも、(ITが典型だが)雇用を増やすどころか、人間の仕事を減らす方向に向かっている。これは結局高給取りと最低賃金すれすれの二極化につながるわけで、そのくせ環境問題だとか言われてレジ袋ももらえないとなると、いよいよ多くの人にとって科学のありがたみというものは分かりにくくなるのではなかろうか。こうしたことに科学や学問に携わる人が気づいていない、あるいは非常に鈍感なことが問題の一部を成しているように私には思われてならない。

ではどうしたらよいか、というと、正直私にはよく分からない。この問題がやっかいなのは、科学も学問もろくなもんじゃない→科学や学問に投資しない→目に見えた成果が出てこない→(以下繰り返し)という、予言の自己成就みたいなところがあるからだと思う。コーエンは科学者を大事にしろと言っていたと思うが、やはり金を突っ込む対象としては大衆的支持というのも大事なわけで、ポピュリズムをどうすれば反科学的ではない方向に誘導できるか、というのが今後大きなテーマとなるように思う。

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「科学や学問の「ありがたみ」」への1件のフィードバック

  1. Org modeの記事からきました。たいへん興味深いです。私は科学(化学)者ですが、科学とテクノロジーとは階層が異なるものだと思っています。知的基盤になるものが科学や学問です。人の生活基盤、物的欲や経済活動に使われるものがテクノロジーです。科学は歴史をたどっていけば宗教とか文化いう精神的なものも関わりがあると思います。日本はサイエンスカフェというものをやってなるべく科学を国民に身近に感じてもらうこともやっていますが、それが根付かない、意識されにくいのは、日本の文化的背景があると考えています(山には神さまがいるとかそういう精神的なものを言っています。あるいはテクノロジーの方が信仰が強いということかもしれません)。後半の話はテクノロジーのことを言っていると思います。それは経済活動などの利権がからみます。イノベーションを身近に感じないとのことですが、いつの時代にも先駆的なことをしている方はいらっしゃるのではと思います。むしろイノベーションだ皆が感じた時には、それはもう技術としては成熟しているのではないでしょうか。科学に投資をしろとは、知的基盤を根付かせ、その延長にある、イノベーションになりそうなものだと気づくアンテナを貼ってもらうためのものを言っているのではないでしょうか。

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