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民主主義のその先へ(1)

Against Democracy

先日のフェイクニュースの話の続き。

米国におけるトランプの当選や英国におけるブレグジット(EU離脱)への賛成が象徴するように、いわゆる先進国でこのところ、民主主義の機能不全が表面化してきた。こう書くと、いやトランプの当選は当然だとかブレグジットの何が悪いんだと言う人もいると思うのだが、私のようなヒラリー・クリントンや米民主党の政策にかなり批判的な人間から見ても、やはりトランプには大統領としての能力が全然無いと思うし、ブレグジットについても、英国が得をすることはほとんど無いというのがコンセンサスだと思う。お世辞にも、賢い選択をしたとは言えない。

トランプやブレグジットは目立つ例だが、ドイツやフランス、イタリアのような他の先進諸国においても、いわゆるポピュリスト(大衆迎合主義者)たちが力を増してきている。米国にしろEUにしろエリートの腐敗というのはあるわけで、反エリートの主張にも一定の意味はあるのだが、総じてこの種のポピュリズム政党は、冷静に考えればつじつまの合わない人気取り政策をぶち上げることが多い。いい加減な主張で離脱キャンペーンをさんざん煽っておいて、投票が終わったあとにあれはウソでしたとあっさり認めた英国のUKIP(独立党)はその最たるものだと思う。しかし、キャンペーン中にも彼らの主張のでたらめさは散々メディアで批判されていたわけで、それでもなお、彼らを選んだのは英国民なのである。昔のヒトラーと同様、完全に民主主義的な意志決定の結果として、変な奴、変な政策が選ばれるということが増えてきている。

このような不合理な結果の、全てでは無いにしろいくつかは、ロシアやら北朝鮮やらの暗躍による、サイバー攻撃やらフェイクニュースやらのプロパガンダによって引き起こされたのだ、という主張もある。確かに、例えばロシアがヒラリー陣営のメールを盗んでばらまいたり、Facebook上でいろいろちょっかいを出していたのは事実らしく(Wikipediaのエントリ)、それはそれで重大な問題なのだが、しかしそれが実際の有権者の投票行動にどこまで影響していたのか、というと、これはまた別の話だ。例えば、トランプに投票した人は高齢者が多かったと言われているが、Facebookユーザの多くを占めているのは若年層で、彼らの多くはヒラリーに投票したのである(Statistaのデータ)。プロパガンダの有無はともかく、その影響の大小を評価するのは極めて難しい。データ・サイエンティスト界(?)のスターとなったFiveThirtyEightのネイト・シルヴァーも、つい最近「非常に難しい」と認めていた。

それはそれとして、多くの有権者がプロパガンダに踊らされたというなら、その理由を考えてみる必要がある。一つは、有権者は本来合理的な判断を下すのに十分な能力を持っていたにも関わらず、巧妙なプロパガンダにうっかりだまされたという見方である。この場合は、先日の話で言えば、ファクト・チェックを徹底するなど、フェイクニュースの供給側を絞れば事態は改善するかもしれない。しかし、もう一つの、より悲観的な見方もある。それは、多くの有権者にはほとんど何の政治的な知識も無く、関心も無く、一方で知識はないのに好みや思い込みとして大きな偏りがあるので、各々の偏りに応じて、自分の見たいものを見て、自分の信じたいものを信じ込み、まことにテキトーに意志決定している、という可能性である。この場合、フェイクニュースはトンマな意志決定の原因ではなく、結果に過ぎないのだ。

後者は、従来だと民主主義批判、大衆批判、あるいはもっとストレートに衆愚批判と言っていいかもしれないが、そう言った文脈でよく語られてきたことで、大昔からよくある話ではある。プラトンの『国家』あたりが嚆矢で、オルテガの『大衆の反逆』やニーチェが代表格だろうか。日本でも、先日亡くなった西部邁など何人か論者がいたように思う。

しかし、今までの民主主義批判は、2つの点で弱いものだった。一つは、論拠の多くが結局のところ論者の主観というか、せいぜい私はこう思いますとかこんなこともありましたというエピソード的なものであって、客観的な説得力に欠けたことである。そしてもう一つは、民主主義への別の具体的選択肢を提示できなかったことだ。まあ、オルタナティヴとしてファシズムや共産主義、あるいは封建主義を唱えた人もいたが、21世紀の今となっては、それほど説得的ではあるまい。

ところが、ここ10年くらい、アメリカのリバタリアン系の若い学者たちが、民主主義批判2.0とでも言うべき著作を多く発表している。邦訳のあるものとしては、原著は2007年に出たブライアン・キャプラン(経済学者)の『選挙の経済学』や、原著2013年のイリヤ・ソミン(法学者)の『民主主義と政治的無知』などがあるが、最近私が読んだこのジェイソン・ブレナン(政治哲学者)による2016年発表の『Against Democracy』が、「反・民主主義論」というタイトルの出落ち感も含めて、読み物として最も読みやすかった。邦訳は出ないかねえ。

これらのどのへんが2.0なのかというと、一つは政治学に経済学、特に公共選択論のノウハウが持ち込まれたということで、これによって、有権者の行動をミクロ経済学的な枠組みで分析できるようになった。もう一つは調査データの分析に基づく議論ということで、人間の政治意識や政治行動に関する調査自体は大昔から世界各地で行われてきたのだが、近年のコンピュータの進歩と相まって、蓄積された膨大なデータを適切に処理できるようになってきたのである。結果として、有権者がどの程度「合理的」なのか、定性的のみならず定量的な話が出来るようになってきたわけだ。

では、こうした最近の計量政治学の研究からどういう結果がもたらされたのかというと、これがあまり元気の出る話ではない。というのは、調査やアンケートにより、少なくとも米国では、データ的に「有権者は本当に何も分かっていない」ということがほぼ立証できてしまった、というのが、この本(および類似の研究)の一つの柱だからである。

選挙期間中にも関わらず、自分の選挙区から出馬している候補の名前を一人も挙げられない、現在議会で多数派を占めているのが共和党なのか民主党なのか分からない、三権分立の三権が何か分からない、自分が「支持」する政党の政策を全く理解していない、ある政策が共和党政権下で推進されたのか民主党政権下で推進されたのか分からず、ブッシュやオバマが実際にはやらなかったことに関してけしからんと思い込んでいる、憲法が大事と言いつつ、そもそも憲法でどのような権利が保障されているかほとんど理解していない、ひどいのになると、社会主義を蛇蝎のごとく嫌っている(とされている)にも関わらず、「From each according to his abilities, to each according to his needs」(能力に応じてではなく、必要に応じて与えられるべきである)という一節が米国憲法に入っていると思い込んでいる(これは本当はマルクスの言葉で共産主義の有名なスローガン)などなど、ブレナンの本の第2章には様々な調査結果の事例が挙げられている。この章のタイトル「Ignorant, Irrational, Misinformed Nationalists」(無知で、非合理的で、誤った知識を持つ民族主義者)というのが、ブレナンらがデータで描き出す米国の有権者像なのだ。日本に関しても、似たような調査をすれば似たような結果が出るのではないかと思う。

問題が有権者の知識不足だけならば、教育を充実させる等の手は打てるかもしれない。しかし、ここ40年、進学率は高まる一方で、図書館やインターネットから低コストでいくらでも知識が手に入るのに、40年前と政治に関するリテラシーのレベルはほとんど変わりがないという調査もある。だからといって、有権者が総じてバカというのも早計だろう。当然有権者(の大多数)がバカなわけではなくて、むしろ「合理的であるがゆえに、政治に関して勉強しない」というほうが、説明として理にかなっている。これが、「合理的無知」(rational ignorance)の考え方である。貿易政策にしろ、エネルギー政策にしろ、きちんと理解するには膨大な量の勉強が必要となるわけだが、勉強して自分の考えを確立したところで、自分の一票が政策に影響を与える可能性は宝くじが当たる確率並みに低い。知識を得るのにかかるコストが期待される利得を大きく上回るので、そもそも苦労して学ぶインセンティヴが無いわけだ。

さらに、大多数が本当にまっさらな無知で、政治に全く関心が無いならば、トンマな意志決定は賛成と反対で大体打ち消し合うはずで、結果として1%だか2%だかの知識がある人がキャスチングボートを握る可能性が高い(「集計の奇跡」と呼ばれる)。しかし実際には、自分にとって合理的な選択よりも、自分の信念やバイアスに適合する選択を重視するという人が多いのである。

ブレナンは、このあたりの事情をなかなかうまい表現で説明している。彼は、有権者をホビット、フーリガン、バルカンの三つに大別する。ホビットはいわゆるノンポリで、有権者の大多数を占めている。政治に対して関心はない。対してフーリガンは、スポーツ・ファン的にある党派やある政策を熱狂的に「応援」していて、ホビットよりは政治知識があるのだが、正確というわけではない。非常に偏った思い込みがあり、理性よりは感情を優先する(数学の成績がよく知的能力が優れていると思われる人ですら、自分の政治的志向と相容れない意見は合理的であっても受け入れないという研究がある)。バルカンはスタートレックに出てくるミスター・スポックのように常に冷静で、偏見に惑わされることなく意志決定が出来る少数派である。で、当然バルカンは(自分がそうだと思い込んでいる人は多いかもしれないが)ほとんどいない。結局実際に熱心に政治参加するのはフーリガンで、それにホビットが煽られるという構図である。また、自分の商売でトンマな意志決定をすると金銭的、社会的に大損害を被るが、先にも述べたように一票の重さは限りなく軽いので、自分の一票が結果に影響を与えるとは考えにくい。このため、選挙における投票はいわば自己表現の手段となってしまう。結果として、誰の得にもならないような変な選択肢が選ばれてしまうということになる。

このへんまではキャプランの本にも書かれていたことで、実はそんなに新味はないのだが、ブレナンの本はこの先で民主主義への(ぼんやりしたものだが)代替案を出しているところがおもしろい。続きはまたそのうち。

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「民主主義のその先へ(1)」への5件のフィードバック

    1. Masayuki Hatta

      ありゃ本当だ。ご指摘ありがとうございます。直しておきました。

        1. Masayuki Hatta

          有権者としてOKかはともかく拙ブログの読者としてはOK牧場ですよ

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