児童ポルノの表現規制に関する考え方のスケッチ

はじめに

漫画やアニメ等の表現規制派の旗頭の一人で、東京都青少年問題協議会委員等の公職にも就いていたメディア学者、渡辺真由子氏の著書「『創作子どもポルノ』と子どもの人権」に、剽窃があるとのことで出版社が回収する騒ぎとなった。そのおかげで、というのも妙な話だが、渡辺が言うところの「創作子どもポルノ」、一般的には非実在児童ポルノとか準児童ポルノと呼ばれていると思うが、そうしたものの表現規制に関する議論が再浮上した感がある。

私が関わるMIAUは、2008年に起きた日本ユニセフ協会による準児童ポルノ騒動以来、長年に渡ってこの問題に深くコミットしてきたが、正直言って私自身はこの手の問題に専門的知見があるわけではない。そんなわけで、自分の頭の整理を兼ねて児童ポルノの表現規制に関する考え方をまとめてみた。似たようなことはすでに多くの人が書いているので、ようは個人的なメモである。

表現規制は結局法規制の問題に帰着するので、法学的、法制史的、あるいは国際比較法的な議論が重要だとは思うが、ここではできるだけ法的議論には踏み込まないという方針でやってみたい。素朴なロジックの範囲でどう考えられるか、というのがテーマだ。

不可侵原則と他者危害原則

表現規制を巡る議論が不毛になりがちなのは、規制派と反対派で前提を共有していないからではないかと思う。そこで、最初に私自身の前提というか考え方を明らかにしておきたい。

私がこの手の問題を考える際に基本とするのは、Non-aggression principle である。英語圏では NAP としてよく知られているが、日本語の定訳は無いようだ。以下では、やや座りの悪い訳だが「不可侵原則」ということにしたい。

これは、「同意が無い限り、他者を侵害してはならない」という立場のことである。ここでの侵害(aggression)とは、他者の所有権や決定権を強制的に犯したり、犯すと脅迫する行為全般のことを指す。我々の身体や能力には自己所有権や自己決定権が及ぶと考えられるので、当然、(性)暴力等も侵害となる。一方、外科医が患者の開腹手術を行うのと、殺人鬼が被害者の腹をナイフで裂くのは、外形的にはあまり違いがない。そこで、同意(consent)の質と有無が重要となるわけだ。当然同意主体には成熟した判断能力が必要とされるので、未成熟な児童の「同意」は、最低でも割り引いて評価しなければならないだろう。これが、年齢によるレーティングが正当化される根拠である。

これと表裏一体なのが(というか、出所は同じなので同じものと見なしてもよいのだが)、他者危害原則(Harm principle)である。これは、「他者への危害は、他者からの危害を防ぐ自衛の場合のみ正当化しうる」という立場である。Harmは危害と訳されることが多いが、相手を危険にさらすような行為だけではなく、より広い意味での干渉や介入全般を意味する。

裏を返せば、他者を侵害しない限り、他人から見てどんなに馬鹿で不道徳なことをしようと干渉されるいわれはなく、個人の自由、という立場でもある。不可侵原則や他者危害原則は不干渉原則でもあり、愚行権とも表裏一体なのだ。

その背景には、自分のことは自分が一番よく分かっているのであって、情報という点でも利害という点でも劣る他人があれこれ言うべきではない、という考え方もあれば、長期的に見ればさすがにいつかは自分のやっていることの馬鹿さ加減に気づくだろう、という人間の理性への信頼もあるだろうし、逆に、いつまで経っても人間は不合理で不道徳なことをやりたがる生き物で、遺憾ながらそれは人間性というものと深く結びついている、という諦念もあるだろう。愚行というとあまりイメージが良くないかもしれないが、私自身は、愚行権こそが人間の自由を保障する最後の砦であり、イノベーションの源泉だと考えている。

不可侵原則や他者危害原則に、正当性は認められるだろうか。不可侵原則に正当性がないとすれば、同意無しでも他者への侵害は認められるということになる。常識的に考えれば、これは殺人や暴力はもとより、奴隷制度や臓器くじを認めるという立場であり、現在多くの支持を得られるとは思えない。とはいえ、確かに緊急避難のような例外的ケースはあり得る。しかしそうした例外を認めるに当たっては、データに基づいた、誰の目から見ても明らかというレベルの強力な根拠が必要だろう。

他者危害原則に関しても様々な正当化が出来ると思うが、私としては、愚行権が認められない社会では愚行が出来ず、愚行したい人の自己決定権が侵害される一方、愚行権を認める社会では当然愚行をしない自由もあるわけで、パレート改善というか、最大多数の最大幸福という見地から正当化しうると思う。また、この考え方から導かれる、「する自由」対「しない/させない自由」といった価値観の衝突の解決法は、棲み分け、すなわちゾーニングということになるだろう。見たい人は見る自由、見たくない人は見ない自由を、それほど多大なコストをかけずに行使できる社会ということである。

実在児童ポルノと非実在児童ポルノ

以上の議論に基づき児童ポルノの問題を考えると、まず実在する児童を撮影した実在児童ポルノについては、その児童の自己所有権が明らかに侵害されているわけだから、全く容認の余地がない。実際、世界的に見ても、実在児童ポルノを擁護する声というのは皆無ではないかと思う。日夜、実在の人身売買や児童虐待と戦っている人々が多くいる。以前、スウェーデンにおける非実在児童ポルノを巡る裁判においてスウェーデン警察が、

一方、児童ポルノの摘発に力を入れるスウェーデン警察は、「性的虐待にさらされる恐れのある子どもたちを、空想のイラストと同レベルに扱うべきではない」と批判。既に警察は虐待の加害者の取り締まりで手一杯で、同裁判の焦点は児童ポルノ対策から外れているとして、「イラストまで捜査対象に加えれば、被害に遭っている子どもたちを助けるための時間が削られてしまう」との見解を示している。

述べたそうだが、これは児童ポルノ取り締まりの現実を雄弁に物語っている。

加えて、そもそもそれは本当に実在児童ポルノなのか、というのは慎重に検討する必要があろう。日本人を含むアジア人は、欧米人からは実年齢よりも若く見えるという。この場合、被写体は実は児童ではなく、同意が有効である可能性があるわけだ。実際、かつて30代の日本人グラビア女優の画像が、海外で児童ポルノ扱いされるという珍事件もあった。

では、漫画やアニメ等の非実在児童ポルノはどうか。

とりあえず、実在する児童のポルノ写真をトレースし、絵画だと言い張る者がいたが、これは実在児童ポルノの範疇であろう。

そうではなく、完全にイマジネーションに基づいたキャラクターが描かれた、非実在児童ポルノはどうだろうか。非実在のキャラクターなので、被害者は存在しない(そもそも「児童」なのか、あるいは人間なのかすらも分からない)。そもそも侵害される他者が存在しないのだから、不可侵原則にも他者危害原則にも抵触しないということになる。児童ポルノを見たり描いたりすることへの倫理的、宗教的批判はありうるかもしれないが、それは法的責任とは別の話で、結局は個人の愚行権の範囲内、というのがこれまでの議論から導かれる結論だと思う。

基本的にはこれで話が終わってしまうと思うのだが、それでもなお非実在児童ポルノを規制したいという場合、どのような論理が考えられるだろうか。今までの議論からすれば、最低でもこの場合、他者への侵害が何らかの形で確かに存在する、ということを、説得力ある形で示す必要が出てくる。

一つの方向は、非実在児童ポルノを見ることが、実在の児童虐待や児童性暴力といった犯罪行為を明らかに増加させるということの証明である。メディアを見ればなにがしか影響されるのは当たり前だが、それが実際に犯罪行為を誘発するかは話が別だ。この因果関係が証明されるのであれば、非実在ポルノの規制は予防措置としてある程度正当化できるかもしれない。

この点に関し、ブログで渡辺真由子氏自身のこれまでの研究を再検討した人がいるが、結局渡辺自身も含め、誰も因果は証明できていないようである。今後この分野の一層の研究が待たれるところだろう。とはいえ、個人的には、そもそもフィクション程度に安易に影響されて犯罪に走らないよう、性教育、メディア・リテラシー教育を充実させるほうがはるかに生産的だと思うが…。

もう一つの方向は、非実在児童ポルノの存在により、具体的に実在の児童の「何か」が侵害されるのだ、ということを、説得力ある形で示すことではないかと思う。渡辺の前掲書は、タイトルからするとそもそもはそれが狙いだったのではないかと思われるのだが、批判サイトを見る限りでは、「何か」が何なのか定義することに失敗しているようである。渡辺としては、それは「人権」だと言いたいようなのだが、非実在児童ポルノと実在の児童は何の関係もないわけで、かといっていわゆる集団的人権説を採るわけでもなく、かなり無理のある主張のように思われる。